伝記
グレン・ハーバート・グールドは、1932年9月25日、トロントに生まれたカナダのピアニスト、作曲家である。旧姓はゴールドで、プロテスタントの家系だったが、ゴールドという名字がユダヤ人に多く、当時高まっていた反ユダヤ主義に巻き込まれることを恐れ、生後まもなく一家はグールドと改姓した。母はノルウェーの作曲家グリーグの親類で、声楽の教師でありピアノも弾いた。3歳から母にピアノの手ほどきを受け、1940年に7歳でトロントの王立音楽院に合格した。ピアノはアルベルト・ゲレロに習った。1944年に地元のピアノコンペで優勝し、1945年にオルガン奏者としてデビューした。1946年5月にトロント交響楽団とベートーヴェンの協奏曲第4番で正式にデビューし、同年10月には王立音楽院を最年少で最優秀の成績で卒業した。
1955年1月2日にワシントンでアメリカ初演奏を行い、新聞に「いかなる時代にも彼のようなピアニストを知らない」と評された。続く1月11日のニューヨーク公演で、アメリカのCBSのディレクターが演奏に惚れ込み、翌日、終身録音契約が結ばれた。グールドは周囲の反対を押し切って、デビュー盤にバッハの「ゴルトベルク変奏曲」を録音した。1956年に初のアルバムとして発表されると、ルイ・アームストロングの新譜を抑えてチャート1位を獲得した。メディアはそのアイドル的な容貌や奇抜な性癖を喧伝して、一躍時の人となった。1957年にはソ連とヨーロッパへ演奏旅行に出た。第二次世界大戦後、ソ連で演奏した最初の北米の音楽家となり、口コミで会場は満員になって、「バッハの再来」と称賛された。1959年にはザルツブルク音楽祭に出演し、世界的なピアニストの地位を確立した。
かねてから、演奏の一回性に疑問を持ち、演奏者と聴衆が平等な関係であるべきだと考えていたグールドは、1964年3月28日のシカゴのリサイタルを最後にコンサートから手を引いた。以後は没するまで、レコード録音と、ラジオやテレビの放送だけを活動の場とした。1977年には、彼が演奏したバッハの「平均律」第2巻の前奏曲とフーガ第1番の録音が、地球外の知的生命体に宛てた人類の傑作として、宇宙船ボイジャー1号と2号に載せられた。
奏法は特異だった。父に作ってもらった高さ約30センチの低い折りたたみ椅子に座り、極端な猫背で前のめりになって、大きな手振りでリズムを取った。演奏しながら旋律の一部を歌うので、スタジオの録音でも「鼻歌」が聞こえ、技師が止めさせようとしても、生涯その習慣を貫いた。ピアノは対位法的な楽器だと考え、各声部を明瞭に弾き分け、ペダルをほとんど使わないノン・レガートの奏法を好んだ。バッハは禁欲的な音楽と思われていた時代に、軽やかで躍動感のあるバッハを聴かせて、後の音楽家に大きな影響を与えた。一方、モーツァルトやベートーヴェンの極端に速い、あるいは遅いテンポの解釈は賛否を呼んだ。ショパンやリストには否定的だったが、シェーンベルクは高く評価した。
1981年に「ゴルトベルク変奏曲」を再録音した。1982年9月27日に脳卒中でトロント総合病院に緊急入院し、容態は急速に悪化した。10月4日、父の判断で延命措置の停止が決められ、同日死亡した。最後のスタジオ録音は、9月8日にトロント交響楽団を指揮したワーグナーの「ジークフリート牧歌」で、ピアノ奏者でなく指揮者として人生を終えた。墓石には「ゴルトベルク変奏曲」の楽譜の一節が刻まれている。
同じ年に亡くなった人物
- Charles Chandler (1982年没)
- 衣笠貞之助 (1982年没)
- 加藤武司 (1982年没)
- リー・ストラスバーグ (1982年没)
- ヘンリー・キング (1982年没)
同じ地域に関係する人物
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- ジョセフ・ブラント (1807年没)
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- アレキサンダー・マッケンジー (カナダ首相) (1892年没)
- レーモンド・マリー・シェーファー (2021年没)