伝記
ヴワディスワフ・ゴムウカは、1905年2月6日、オーストリア領ガリツィアにあるクロスノ郊外の村ビャウォブジェギ・フランチシュカンスキェで、労働者の家に生まれたポーランドの共産党政治家である。両親はアメリカで出会って結婚した。19世紀末に職を求めて渡米していたが、父ヤンが米国で定職を見つけられず、20世紀の初めに分割下のポーランドへ戻った。父は南カルパチア地方の石油産業で労働者として働き、家は朽ちかけた小屋で、食べ物は主にじゃがいもだった。アメリカで生まれた姉ヨゼファは、18歳になると、市民権を保つため、親戚の多くが移住している米国へ戻った。
ゴムウカは、6年か7年クロスノの学校に通ったが、13歳で金属工場の徒弟となった。1922年に徒弟の試験に合格して、地元の製油所で働き始めた。独学で多くを学ぶ読書家だったが、学歴の乏しさと物腰を笑われる対象でもあった。1921年に社会主義運動に加わり、1922年に青年組織に、1925年に農民党に入った。金属労働者や化学産業の労働組合で活動し、ストライキにも加わった。1926年5月に初めて逮捕されたが、労働者の要求で釈放された。同年10月にドロホビチ地区の化学産業労働者組合の書記となり、1926年に非合法の共産党に入党して、政治的な扇動で再び逮捕された。1932年のウッチの繊維ストライキでは、警察に脚を撃たれて重傷を負い、歩行に障害が残った。同年に逮捕され、禁固4年を言い渡されたが、病気のため1934年に釈放され、翌年までモスクワの国際レーニン学校で学んだ。
1939年のドイツによる侵攻で解放され、リヴィウに避難した。その後ワルシャワに呼び戻されて、ナチスに対するレジスタンスの最も精力的な組織者の一人となった。1943年にポーランド労働者党の書記長となる。1944年末からは、ポーランド共和国暫定政府の副首相兼回復領土問題相を務め、1945年の国民統一暫定政府でも副首相にとどまった。しかし、ソ連の意向に反する態度を取り始め、1948年に右翼民族主義的だと批判されて、9月3日に書記長を解任された。12月に自己批判を行ったが、政治局員には選ばれず、1949年1月に全ての国家ポストを失って党から除名された。1951年7月には逮捕・投獄された。
スターリンの死とソ連の政策変更を経て、1954年12月に釈放された。1956年6月のポズナン暴動の後、8月5日に党への復帰が認められ、10月21日に第一書記に選ばれた。「ポーランドの社会主義への道」を掲げ、農業集団化の廃止、カトリック教会への迫害の停止、検閲の緩和、ソ連の顧問の撤退などを進めた改革は、当初、民衆に歓迎された。だが改革はやがて行き詰まった。1967年から1968年に反シオニズムの運動を許して、多くのユダヤ人が国を去り、1968年8月にはチェコスロバキアへの介入に参加した。1970年12月、西ドイツとの条約で戦後の国境が認められたが、物価の値上げが沿岸部の造船所労働者との流血の衝突を引き起こして数十人の労働者が射殺され、同月18日に第一書記を辞任した。翌1971年に引退し、1982年9月1日に肺がんで死去した。
同じ年に亡くなった人物
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- アンナ・フロイト (1982年没)
- アルマ・レヴィル (1982年没)
- フェルナンド・ラマス (1982年没)
- ヴェルナー・ナウマン (1982年没)
同じ地域に関係する人物
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- ヤン・ノヴァク=イェジォランスキ (2005年没)
- アウグスト2世 (ポーランド王) (1733年没)
- Maciej Kazimierz Sarbiewski (1640年没)
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