伝記
ワシーリー・イヴァーノヴィチ・チュイコフは、1900年2月12日にトゥーラ県のセレブリャヌイエ村で、農家の第8子として生まれたソビエト連邦の軍人で、元帥にまで昇った。兄弟姉妹は11人いた。12歳で学校を卒業し、家族の生活費を稼ぐためにサンクトペテルブルクの工場で働き始めた。二月革命が起こると工場を解雇され、赤衛隊に入って、兄弟とともにクロンシュタットの地雷教育部隊に配属された。1918年にはモスクワの左派エスエルの反乱の鎮圧に加わり、その後、軍学校で3か月間、軍事教官課程を学んだ。ロシア内戦では南部戦線に従軍し、1919年にボリシェヴィキ党員になって第40連隊長に任命され、トゥハチェフスキーの指揮下でコルチャーク軍と戦った。1920年には白軍との戦闘の功績で赤旗勲章を授与された。ポーランド・ソビエト戦争では4度負傷し、砲弾の破片が左腕に残ったままとなり、以後、左腕の麻痺に悩まされた。
1921年に軍事アカデミーに入学して1925年に卒業し、1926年にヴァレンティナ・ペトローヴナ・パブロヴァと結婚して、1男1女をもうけた。1929年から1933年にかけて極東軍参謀部の課長を務め、1935年からは陸軍士官学校の教官となった。1939年のポーランド侵攻では第4軍司令官として参戦し、続く冬戦争では第9軍司令官を務めたが、スオムッサルミの戦いでフィンランド軍に敗北している。その後、中国に軍事顧問団の一員として赴任し、1942年5月に帰国した。同年6月に中将となって第64軍司令官に就き、9月10日には第62軍司令官となって、スターリングラード攻防戦に臨んだ。この戦いでは、敵が潜む可能性のある部屋に手榴弾を投げ入れ、爆発の直後に自動小銃を構えて突入するという室内戦の戦術を編み出し、のちに様々な国の特殊部隊の模範となったとされる。ドイツ第6軍を降伏に追い込んだ勝利のあと、スヴォーロフ勲章を授与され、第62軍は第8親衛軍に改称された。
その後もウクライナ、白ロシア、ヴィスワ=オーデル攻勢に参加し、ルブリンのマイダネクを解放し、ポズナンを攻略した。ゼーロウ高地でドイツ第9軍を破ってベルリンに進軍し、市街戦のさなかの1945年5月1日には、テンペルホーフ地区に司令部を構えた。そこでドイツ陸軍参謀総長ハンス・クレープスの休戦交渉を受け、ヒトラーの死を知った最初の連合軍司令官となった。クレープスから死を告げられたとき、既に知っていると平然と答え、交渉の休憩時にジューコフに電話し、その後スターリンに伝えられたという。無条件降伏のみを受け入れるとして休戦交渉を拒み、翌2日にベルリン防衛軍司令官ヴァイトリングの降伏を受け入れた。スターリングラード戦とポズナン攻略の功績でソ連邦英雄を授与されている。
戦後は、ドイツ駐留ソ連軍の第一副総司令官を経て、1949年に総司令官となった。スターリンの死後は格下のキエフ軍管区司令官に左遷されたが、1955年3月11日にはソ連邦元帥に昇進した。1960年に国防次官兼地上軍総司令官となり、1961年からは民間防衛部長も兼ね、党中央委員会委員としては死去するまで務めた。1962年には、キューバへの核ミサイル配備を指揮した中心人物の一人だった。1965年にベルリン名誉市民となった。1981年に左腕の傷から敗血症を引き起こし、9か月後の1982年3月18日に死去した。遺体は、スターリングラード攻防戦の激戦地ママエフ・クルガンに埋葬され、クレムリンの壁墓所以外に葬られた唯一の元帥となった。独ソ戦の経験を8冊の著作に残している。
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