HISTORICAL PERSON · 1982年没

アイン・ランド

ロシア生まれで米国に移住した作家、思想家。小説『水源』『肩をすくめるアトラス』で知られ、理性や合理的なエゴイズムを重んじる「客観主義」を唱えた。

生涯
1982年没
死亡地
アメリカ合衆国(ニューヨーク州 / マンハッタン区)
出生地
ロシア連邦(サンクトペテルブルク)
出典
世界地図
アメリカ合衆国(ニューヨーク州)

伝記

アイン・ランドは、1905年2月2日にサンクトペテルブルクで、中産階級の家の3人姉妹の長女として生まれたロシア系アメリカ人の小説家、思想家、劇作家である。本名はアリーサ・ジノヴィエヴナ・ローゼンバウム。父ジノヴィは薬剤師として成功して、薬局とそのビルを所有するに至り、母はアンナ・ボリソヴナ(旧姓カプラン)で、二人はほぼ戒律を守らないユダヤ人であった。学校は退屈で、本人によれば、8歳のときに映画の脚本を、10歳のときには小説を書き始めた。12歳のときに二月革命が起き、ニコライ2世よりもケレンスキーに好感を持った。その後の十月革命とボリシェヴィキの独裁により、一家の快適な生活は破壊され、父の薬局事業は没収されて、一家は転居を強制された。ロシア内戦中、白軍の支配下にあったクリミアに逃れ、高校時代に無神論の立場を取り、理性を他のあらゆる人間的価値の上に置くことに決めたと回想している。

16歳でクリミアの高校を卒業したあと、一家はペトログラードに戻ったが、生活条件はひどく、飢餓寸前に陥ることもあった。革命後に大学が女性に開放されると、ペトログラード大学に入学した最初の女性の一人になり、社会教育学部で歴史を専攻した。大学ではアリストテレスとプラトンの著作に出会い、前者には最大の影響を、後者には最大の反面教師としての影響を受けたという。次いでフリードリヒ・ニーチェの著作を熱心に研究し、ドストエフスキー、ユーゴー、ロスタンらの作品も長く愛読した。卒業直前、他の多くの「ブルジョア」学生とともに大学から追放されたが、海外から訪れた科学者グループの抗議により、多くは卒業を許され、1924年に卒業した。その後1年間、国立映画専門学校で学んだ。このころまでに、筆名としてアイン・ランドを名乗ることを決めていた。

1925年、アメリカの親類を訪問するビザを取得した。ニューヨーク港に着くと、マンハッタンの摩天楼が織りなすスカイラインに、感激のあまり「光輝の涙」を流したと、のちに回想している。シカゴの親類を訪ねたのち、ハリウッドへ向かった。当初の生活は苦しく、雑多な仕事で生活費を稼ぎ、セシル・B・デミル監督と面識を得て、映画『キング・オブ・キングス』のエキストラに採用された。この仕事の中で、若く野心的な俳優フランク・オコナーと出会い、1929年4月15日に結婚した。1931年にアメリカ市民権を取得した。両親と2人の妹を呼び寄せようと何度か試みたが、移住許可は得られなかった。1932年には脚本が映画会社に買い取られたが、映画化はされなかった。法廷劇「1月16日の夜に」は1935年にブロードウェイで上演されて成功し、毎晩、観客の中から「陪審員」が選ばれて、評決に応じて2つの結末の一方が演じられた。最初の小説は1936年に出版された半自伝的作品『われら生きるもの』である。

『水源』は、執筆に7年を費やして1943年に出版された。12の出版社から出版を拒否されたあと、ある編集者が、出版しなければ会社を辞めると雇い主を脅したことで、出版社がようやく引き受けた。この作品が最初の大ヒット作となり、世界的な成功を収めて、名声と経済的な安定をもたらした。1957年には代表作の小説『肩をすくめるアトラス』を出版した。その後は自らの思想を伝えるノンフィクションに転じ、雑誌を刊行して、エッセー集も発表した。自ら「客観主義」と名付けた思想を創り、理性を知識を得る唯一の手段として擁護し、信仰や宗教を拒んだ。最小国家主義と自由放任の資本主義を支持し、1982年3月6日に没した。

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