伝記
パラケルススは、本名をテオフラストゥス・(フォン)・ホーエンハイムといい、1493年にスイスの巡礼地の山村アインジーデルンで生まれたとされる。誕生日は11月10日とも11日とも12月17日ともいわれる。父はドイツ人の放浪の医師ヴィルヘルムで、母は無名の教会隷民の娘だった。10歳ごろに母を亡くし、オーストリアのフィラッハに移って基礎教育を受けた。父は市医や鉱山学校の講師を務めながら、自然哲学や医学、化学を息子に教えた。少年時代を鉱山学校で過ごしたため、金属や坑夫、その病気への関心が育ったという。また修道院長で隠秘学者のトリテミウスのもとで魔術の理論も学んだとされる。
1508年ごろから放浪を始めたとされ、1510年ごろにバーゼル大学で学び、次いでフェラーラ大学医学部に入って、人文主義医学に触れた。1515年か1516年ごろに医学の博士号を得たとされるが、博士号授与者の名簿に名前が見当たらないため、本当にフェラーラで学位を取ったのかは疑問視されている。大学での学問に失望した彼は、各地を歩いて民間伝承から学ぶほうが有効だと考えた。1516年から1526年ごろにかけてウィーン、ケルン、パリ、モンペリエなどを遍歴し、この間にパラケルススと自称するようになったといわれ、この名は古代ローマの医学者ケルススを凌ぐという意味合いからともされる。軍医として働いたという話も伝わる。1524年にはザルツブルクで農民と鉱夫の連合軍の蜂起に立ち会い、これを扇動したとされる。
1526年ごろの夏に、バーゼル大学の医学部教授に就任するとともに、バーゼルの町医者となった。印刷業者やエラスムスも彼の治療を受けたという。1527年6月には「これまでの医学を転換させる」という張り紙を大学に貼り、学生を驚かせたといわれる。講義は大学で用いられるラテン語ではなくドイツ語で行い、赤い帽子とガウンという教授の装いを破って、黒いベレー帽に薬品で汚れた服で教壇に立った。6月24日にはガレノスやアヴィケンナらの権威ある医学書を学生の前で燃やして大問題になったという逸話が残るが、真偽は不明である。翌1528年2月には大学とバーゼルの町から追放され、ライン川やドナウ川の方面へと放浪を続けた。その間に書かれた著作に、「パラ三部作」と呼ばれるうちの『パラグラヌム』などがある。
医学では四体液説に反対し、鉱物から得る薬を用い、医学に化学を導入した。酸化鉄、水銀(梅毒の治療に使った)、アンチモン、鉛、銅、ヒ素などの化合物を初めて医薬品に採用したことから、「医化学の祖」と呼ばれる。梅毒の薬とされた癒瘡木が効かないことを明らかにし、この輸入で巨富を得ていたフッガー家を敵に回した。万物の根源は水銀、硫黄、塩からなるとする三原質説を唱え、錬金術については金を作るのではなく、医薬品や普遍医薬を作るべきだと主張した。「服用量が毒を作る」という格言もパラケルススのものとされ、「毒性学の父」と呼ばれる。
1541年9月24日にザルツブルクで47歳で没し、聖セバスチャン墓地に葬られた。死因は病死説、居酒屋での喧嘩で殺されたという説、暗殺説などがある。膨大な原稿を書き残したが、ほとんどが生前は出版されず、死の約20年後からドイツの医師たちが出版に動き、約50年後に全集として出版された。
同じ年に亡くなった人物
- フアン・デ・バルデス (1541年)
- ヘラルト・ホレンバウト (1541年)
- ハインリヒ4世 (ザクセン公) (1541年没)
- 北条氏綱 (1541年没)
- ジャン・クルーエ (1541年)
同じ地域に関係する人物
- カールハインツ・ベーム (2014年没)
- ディートリヒ・マテシッツ (2022年没)
- ヴァルター・シーマナ (1948年没)
- ゲルノト・ユルティン (2006年没)
- フリードリヒ・フォン・ヴィーザー (1926年没)