HISTORICAL PERSON · 1983年没

ガリンシャ

ブラジルの元サッカー選手で右ウイング。ブラジル代表のワールドカップ2度の優勝に貢献し、巧みなドリブルでペレと並び称された。晩年は飲酒に苦しんだ。

生涯
1983年没
死亡地
ブラジル連邦共和国(リオデジャネイロ州 / リオデジャネイロ)
出生地
ブラジル連邦共和国(パウ・グランデ)
出典
世界地図
ブラジル連邦共和国(リオデジャネイロ州)

伝記

ガリンシャ、本名マノエウ・フランシスコ・ドス・サントスは、1933年10月28日に生まれ、1983年1月20日に没したブラジルの元サッカー選手で、ポジションはフォワードの右ウイングである。ブラジル代表の2度のワールドカップ制覇に貢献した、20世紀最高の右ウイングの一人とされる。愛称のガリンシャは、ポルトガル語で山岳に生息する小鳥、ミソサザイを意味する。身体的な特徴から「脚の曲がった天使」とも呼ばれた。

リオデジャネイロ近郊のパウ・グランデで生まれた。父はインディオ、母はアフリカ系ブラジル人の混血児だった。6歳でポリオにかかったが、貧しく医者にかかる金がなかったため、無名の若い医者が無料で手術を施した。その結果、背骨はS字状に歪曲して両足が同じ方向にねじ曲がり、左右の足の長さも異なって、右足が左足より6センチ長かった。自然に恵まれた土地で、狩りや釣りに才能を発揮する一方、サッカーでも特異な才能を示し、歪曲した足が予測のつかない動きを生んで、街で一番のドリブルの名手となった。勉強が嫌いで小学校を2年で中退し、14歳で製織工場で働き始め、工場のサッカークラブでもプレーした。サッカーには然程固執せず、地元開催の1950年のワールドカップで国中が盛り上がっても姿勢は変わらず、決勝リーグ最終戦でブラジルが敗れた時も、釣りに出かけていたという。

1953年6月、19歳でボタフォゴの入団テストを兼ねた練習に参加し、当時のブラジル代表DFニウトン・サントスを、股抜きなどのドリブルで何度も翻弄した。サントスは「彼のマークにつくのは真っ平御免だ」と役員に直談判し、この日のうちに契約が成立した。デビュー戦は同年7月19日で、右ウイングで先発し、1対2の劣勢からハットトリックを決めて6対3の逆転勝利に貢献した。1961年と1962年にはリオデジャネイロ州選手権の連覇に貢献したが、その頃から膝に問題を抱え、1964年に手術を受けたものの、かつてのプレーを取り戻せなかった。1966年にボタフォゴを離れ、いくつかのクラブを渡り歩き、1972年に引退した。

ブラジル代表には1955年に選ばれ、9月18日のチリ戦でデビューした。1958年のワールドカップ・スウェーデン大会では、心理テストの結果から、監督は起用をためらい、開幕当初は控えに回った。ニウトン・サントスらの進言で3戦目のソ連戦に起用され、同じ試合に出たペレとのコンビで、開始早々の先制点を演出した。決勝のスウェーデン戦では、右サイドの突破から2点をアシストして、ブラジルの初優勝に貢献した。1962年のチリ大会では、ペレが負傷で欠場したため、エースとしてチームを牽引した。準々決勝のイングランド戦では2得点、準決勝のチリ戦でも2得点を挙げ、決勝は39度の高熱をおして出場して、大会2連覇に導いた。大会通算4得点で得点王の一人となった。1966年大会が最後の代表となり、国際Aマッチは50試合で12得点を記録した。

私生活では18歳で工場労働者の女性と結婚し、8人の子供が生まれたが、浮気を繰り返し、生活は乱れた。1966年頃からサンバ歌手と交際して再婚したが、1969年に自ら運転する車で事故を起こし、同乗していた義母を亡くして、塞ぎこむようになった。1973年12月には、生活に窮するガリンシャのための感謝試合が、マラカナンで行われた。引退後はますます酒癖が酷くなり、アルコール依存症を患って入退院を繰り返し、1983年に肝硬変のため49歳で亡くなった。

同じ年に亡くなった人物

同じ地域に関係する人物