HISTORICAL PERSON · 1983年没

グロリア・スワンソン

アメリカの女優。サイレント時代に活躍した。エキストラとして映画に出始め、マック・セネットの喜劇を経て、1919年にパラマウント映画へ移った。

生涯
1983年没
死亡地
アメリカ合衆国(ニューヨーク州 / ウェイル・コーネル医療センター)
出生地
アメリカ合衆国(シカゴ)
出典
世界地図
アメリカ合衆国(ニューヨーク州)

伝記

グロリア・スワンソンは、1899年3月27日にアメリカ合衆国イリノイ州シカゴで生まれた女優で、サイレント映画の時代に活躍した。出生名はグロリア・メイ・ジョセフィン・スワンソンで、スウェーデン系の父ジョゼフ・セオドア・スワンソンと、ポーランド系の母アデリーン・クラノウスキーの間に生まれた。父は軍人で、赴任先が変わったため、子供のころはプエルトリコ、シカゴ、キー・ウエストなどで過ごし、プエルトリコではスペイン語を覚えたという。学校を終えるとデパートの販売員として働いた。ショービジネスに特に興味はなかったが、1914年からシカゴのエッサネイ社の小さなスタジオで、エキストラとして映画に出るようになった。エキストラの仕事で若いチャールズ・チャップリンと顔を合わせ、映画に専念することを決めた。やがて両親が別れ、母とともにカリフォルニアに移った。

1916年にロサンゼルスに移り、マック・セネットのコメディなどに出演した。この年、俳優のウォーレス・ビアリーと結婚したが、3年後に離婚した。1919年にパラマウント映画と契約し、セシル・B・デミルに見いだされた。身長は約150センチメートルと小柄だったが、豪華なセットと衣装を用いたゴージャスな作品で人気を博し、無邪気な喜劇女優から、ロマンティックで挑発的な物語のヒロインへと変わっていった。デミルの『男性と女性』(1919年)では、ライオンとともにポーズをとって話題になった。ファッションの象徴となり、私生活もマスコミに追われた。パラマウントの看板女優として、年に100万ドルの契約を結び、「週に100万ドルを稼ぎ、100万ドルを使うスター」と呼ばれた。

2度目の夫はハーバート・K・ソンボーンで、娘グロリアが生まれた。出産後も人気は衰えず、初めての子持ちのスターでもあった。1925年にフランスで映画『在りし日のナポレオン』の撮影中、通訳を務めたクードレー侯爵アンリ・ド・ラ・ファレーズと出会い、3度目の結婚をした。貴族と結婚した初めてのハリウッド女優だったとされる。この結婚と同じころ、ケネディ大統領の父であるジョセフ・P・ケネディと不倫の関係にあったことを、50年後に出版した自伝で初めて明かした。関係は3年続き、カトリックで離婚のできない彼のために身を引いたという。4度目の夫マイケル・ファーマーとの間に2人目の娘ミシェルが生まれたが、3年で離婚した。5番目の夫ジョージ・ウィリアム・デイヴィとは、45日間しか共に暮らさなかった。最後の夫のウィリアム・ダフティは作家で脚本家であり、彼女の死まで共に暮らした。

トーキーの登場とともに人気は急落し、主にテレビを中心に活動するようになった。1929年と1930年にアカデミー主演女優賞の候補となった。1950年、ビリー・ワイルダー監督の『サンセット大通り』で、忘れ去られたサイレント時代の女優という自身を投影したような役でカムバックし、ゴールデングローブ賞の主演女優賞(ドラマ部門)を受賞して、アカデミー主演女優賞にもノミネートされた。遺作は本人をモデルとした同姓同名の女優の役を演じた『エアポート'75』(1974年)である。晩年は夫の影響でオーガニックフードに親しみ、1983年4月4日に心臓病で死去した。

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