伝記
アンナ・ゼーガースは、1900年11月19日に生まれ、1983年6月1日に没したドイツの小説家である。本名はネティ・ラドヴァーニ、旧姓はライリングという。メキシコへの亡命を経て、東ドイツで活動した。代表作に『第七の十字架』『死者はいつまでも若い』などがある。
マインツの裕福な古美術商イージドーア・ライリングと妻ヘートヴィヒの一人っ子として生まれた。両親ともにユダヤ教正統派だった。文学好きの母の影響で、病気がちだった幼少時には、ドイツやロシアの古典文学を読んで育ち、トルストイに心酔した。1920年にハイデルベルク大学に進み、美術史、社会学、中国学を専攻して、マルクス主義や社会主義にも関心を深めた。1924年に、レンブラントの作品に見るユダヤ人とユダヤ教についての論文で博士号を得ている。1925年に、学生時代に知り合った亡命ハンガリー人の社会学者ラースロー・ラドヴァーニと結婚し、ベルリンに移って、作家活動を始めた。1927年に小説「グルーベチュ」を、「ゼーガース」という苗字だけのペンネームで新聞に発表した。筆者の性別が分からなかったため、批評家は男性作家の作品と推測した。このペンネームは、オランダの画家セーヘルスに由来する。1928年に「アンナ・ゼーガース」の名で発表した最初の単行本『聖バルバラの漁民一揆』が評価されて、クライスト賞を受け、同年、ドイツ共産党に入党した。1930年には、ドイツ代表団の一員として国際作家会議に出席するため、初めてソビエト連邦を訪れた。
1933年にナチスが政権を取ると、前年に書いた『道連れたち』は発禁になり、ゲシュタポに逮捕されたが、結婚してハンガリー国籍だったため、ほどなく釈放された。この年にドイツを去ってスイスへ、後に家族と合流してフランスへ移った。1935年にはパリの国際作家会議で演説した。1937年から39年にパリで、1933年にマインツ近くの強制収容所で実際に起きた脱走事件に取材した『第七の十字架』を執筆し、一部をモスクワの雑誌に掲載したが、独ソ不可侵条約により、残りの発表はできなくなった。1940年にドイツ軍がパリに侵攻すると、夫が南フランスに拘留され、彼女も避難して、夫の解放と出国の手続きに奔走した。この体験は『トランジット』に描かれている。1941年に出国したが、マルティニクで足止めされ、アメリカではコミュニストとして監視されていたため上陸を許されず、エリス島に収容された。キューバを経由してメキシコに亡命し、ドイツからの亡命者らとともに自由ドイツ運動を起こして、反ナチ出版活動の拠点とした。『第七の十字架』は、フランスで作った原稿4部のうち3部が失われたが、アメリカに渡った1部が生き残り、1942年に英語版がアメリカで出版されてベストセラーとなった。1944年には映画化されている。
戦後の1947年にドイツへ帰国した。この間に父は1940年にマインツで死去し、母は1942年にポーランドの強制収容所で殺害されていた。同年、ゲオルク・ビューヒナー賞を受賞する。1949年に長編『死者はいつまでも若い』を公刊し、1950年に東ベルリンへ移った。1951年にドイツ民主共和国国民賞を受け、1952年にはドイツ民主共和国作家連盟の会長に就任した。1959年に長編『決断』を発表し、かつて滞在した西インド諸島の歴史に関心を持って、『ハイチの宴』などの作品を書いた。1978年に夫が死去し、その後はタンザニアでの支援活動を行った。1983年に亡くなり、ブレヒトらも眠るベルリンの墓地に葬られた。
同じ年に亡くなった人物
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- オットー・ヘックマン (1983年没)
- ジョーン・ハケット (1983年没)
- ヴァルター・シュテンネス (1983年没)
同じ地域に関係する人物
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- ゾフィー・ドロテア・フォン・ハノーファー (1757年没)
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