HISTORICAL PERSON · 1983年没

ドロレス・デル・リオ

メキシコ出身の女優。1920年代のサイレント期から1930年代のトーキー初期までハリウッドで活動し、1940年代以降は主にメキシコ映画界で活躍した。

生涯
1983年没
死亡地
アメリカ合衆国(カリフォルニア州 / ニューポート・ビーチ)
出生地
メキシコ合衆国(ドゥランゴ)
出典
世界地図
アメリカ合衆国(カリフォルニア州)

伝記

ドロレス・デル・リオは、1904年8月3日にメキシコのドゥランゴ州ビクトリアで生まれ、1983年4月11日にカリフォルニア州ニューポートビーチで没した女優である。本名はマリア・デ・ロス・ドロレス・アスンソロ・イ・ロペス・ネグレテという。1920年代のサイレント映画の時代から、30年代のトーキー初期までハリウッドを拠点に活動し、40年代以降は主にメキシコ映画界で実績を残した。50年を超える芸能生活のなかで、ハリウッドでスターの座に就いた最初のヒスパニック系の女優とされている。

父ヘスス・レオナルド・アスンソロは、裕福な農場主の息子でドゥランゴ銀行の頭取、母アントニア・ロペス・ネグレテは、国内でも指折りの富裕な家柄で、先祖は副王領時代の貴族に連なるとされた。両親は、独裁者ポルフィリオ・ディアスの時代のメキシコの貴族階級に属していた。母方のいとこには、映画監督のフリオ・ブラチョや、俳優のラモン・ノバロ、アンドレア・パルマがいる。一家は、1910年から1920年にかけてのメキシコ革命で全財産を失った。ドゥランゴの貴族の家はパンチョ・ビリャの蜂起におびやかされ、父はアメリカ合衆国へ逃れ、ドロレスは母と、農民に変装して列車でメキシコ市へ逃れた。1912年に一家はメキシコ市で合流し、母のいとこにあたるマデーロ大統領の庇護のもとで暮らした。1913年2月の軍事クーデター「悲劇の十日間」も目の当たりにしている。

メキシコ市のフランス人学校に通い、母に連れられて見たロシアの舞踊家アンナ・パブロワの公演に魅了されて、自らも舞踊家になろうと決めた。さらに別の舞踊家の舞台を見て、その決意を固め、母を説得して舞踊の教室に通った。そのころは自分に自信が持てず、「みにくいアヒルの子」のような劣等感に悩んでいたため、母は有名な画家に肖像画を頼み、これが彼女の自信を取り戻させたという。1921年に、病院のための慈善の舞踏会で貴族のハイメ・マルティネス・デル・リオと出会った。メキシコで見出された彼女は、1925年にハリウッドで映画の経歴を始め、『復活』(1927年)、『ラモナ』(1928年)、『エヴァンジェリン』(1929年)などの主演で知られるようになった。サイレント時代には、ルドルフ・ヴァレンティノの女性版、「女性のラテン・ラヴァー」とも見なされた。

トーキーの到来後は、ドラマや恋愛喜劇、ミュージカルなど数多くの作品に出演した。『南海の劫火』(1932年)や『空中レヴュー時代』(1933年)、『ワンダー・バー』(1934年)などがこの時期の代表作である。1940年代の初めに、ハリウッドでの経歴に陰りが見えると、全盛期にあった母国の映画産業に加わるため、メキシコへ戻った。以後、メキシコ映画の黄金期を代表する存在となり、主演作の数々が古典とされ、メキシコ映画を世界に広めた。『運命の女』(1945年)ではアリエル賞の主演女優賞を受けている。1940年代と50年代はメキシコ映画に出演し続け、1960年にハリウッドに戻って、『燃える平原児』(1960年)や『シャイアン』(1964年)に出演した。晩年までメキシコとアメリカの映画に交互に出演し、舞台やテレビにも出た。ラテンアメリカでもアメリカでも神話的な存在とされ、メキシコ女性の顔を世界に示した象徴とされる。

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