HISTORICAL PERSON · 1983年没

ジョアン・ミロ

スペインのカタルーニャ出身の画家。パリでシュルレアリスムの運動に参加し、激しくデフォルメした有機的な形と原色で独自の作風を築いた。

生涯
1983年没
死亡地
スペイン王国(バレアレス諸島 / パルマ・デ・マヨルカ)
出生地
スペイン王国(バルセロナ)
出典
世界地図
スペイン王国(バレアレス諸島)

伝記

ジョアン・ミロ・イ・ファラーは、1893年4月20日にスペインのカタルーニャ地方の中心都市バルセロナで、ゴシック地区に住む金細工師で時計商のミケル・ミロ・アッゼリアスと、母ドロレス・ファラーの間に生まれた画家である。フランコ体制下のスペインでは、カスティーリャ語以外の言語が公的に禁止されていたため、カスティーリャ語式の読みで「ホアン・ミロ」と書かれることが多かったが、現在は出身地の原音を尊重して「ジョアン・ミロ」と表記するのが通例である。7歳のときに私立学校でデッサンの授業を受け始め、父の落胆をよそに、美術学校のラ・リョッチ校に入った。商業学校にも通い、10代のころには事務員として働いたが、神経衰弱に陥ってからは、実業の世界を完全に捨てて美術に専念した。

1911年、18歳のときにうつ病と腸チフスを患い、療養のために、カタルーニャのモンロッチの村にある父の別荘「マス・ミロ」に滞在した。この村の環境が、ミロの芸術に大きな影響を与えたようである。このころから画家を目ざすようになった。初期の作品はゴッホやセザンヌに触発されたもので、その類似から、美術史家はこの時期を「カタルーニャのフォーヴィスム期」と呼ぶ。1918年にバルセロナのダルマウ画廊で初めての個展を開いたが、作品は嘲笑され、傷つけられた。フォーヴやキュビスムの展覧会に刺激され、モンパルナスに集まる芸術家たちにも惹かれて、1919年ごろにパリに出、以後はモンロッチとパリを往復しながら制作した。パリではピカソらと知り合い、シュルレアリスム運動の主唱者アンドレ・ブルトンとも出会った。1921年には、パリで初めての個展が開かれた。この時期の絵『農園』は、のちにヘミングウェイが買い取り、「そこにいるときに感じるスペインのすべてと、離れていて行けないときに感じるすべてがある」と評した。

1924年、ミロはシュルレアリストのグループに加わった。ベルギーのマグリットやダリらの古典的、写実的な描き方とは全く異なる自由奔放な作風だったが、ブルトンはこれこそが真のシュルレアリスムだと共鳴した。ミロは「画家」という肩書きにこだわって狭い世界に閉じこもることを嫌い、パリでは、アメリカの作家ヘミングウェイやヘンリー・ミラーとも交流があった。1926年にはマックス・エルンストとともに、セルゲイ・ディアギレフのバレエのための衣装と装置を手がけた。1929年10月12日にマリョルカ島のパルマでピラール・フンコサと結婚し、翌1930年7月17日に娘マリア・ドロレスが生まれた。

1930年代から、バルセロナ、パリ、パルマ・デ・マヨルカにアトリエを持って制作した。1944年からは陶器や彫刻の制作を始め、作品の幅を広げた。1956年にはパルマに大規模なアトリエを造り、陶器、壁画、彫刻など、絵画以外の分野の職人との共同制作で、次々に作品を生み出した。晩年にはコンクリート製の大型彫刻や壁画など、公共の場に置く大作を数多く残した。1966年に来日し、1969年には大阪の日本万国博覧会のガス館に、陶板壁画『無垢の笑い』を制作するため再び来日した。1975年に生まれ故郷のバルセロナにジョアン・ミロ財団の美術館が設立され、1981年には第二の故郷のパルマにも開館した。1983年12月25日、アトリエのあるパルマ・デ・マヨルカで、老衰のため90歳で死去した。

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