伝記
レオポルド3世は、1901年11月3日に、第3代ベルギー国王アルベール1世と王妃エリザベートの子として、ブリュッセルで生まれた。第4代のベルギー国王である。父王は、北部のフランデレンと南部のワロンの対立を理解し、ベルギーの統一を維持したいと考えていた。王家は代々フランス語を母語としていたが、アルベール1世は、即位式での誓約を史上初めてフランス語とオランダ語の両方で行い、子女にフラマン語を学ばせると宣言した。王太子のころには、第12ベルギー連隊の兵士として第一次世界大戦を戦った。戦後の1919年には、カリフォルニア州サンタバーバラの神学校に入学した。1926年11月4日、ストックホルムで、スウェーデンのアストリッド王女と結婚した。
1934年2月23日に父王が崩御して即位した。即位式では宣誓だけでなく、挨拶も二つの言語で行った。1935年8月29日、国王と王妃がスイスの別荘近くの道をドライブ中、レオポルド3世が運転を誤り、車がルツェルン湖に転落した。王妃はこの事故で亡くなった。父と妃を相次いで失ったことに加え、同じころ、王弟シャルルが平民の女性との結婚問題を抱え、国王の反対で断念したため、兄弟の関係は著しく悪化していた。ヒトラーの首相任命以後、ドイツをめぐる情勢は急速に悪化した。国王は、1920年に結んだ仏白軍事協定がかえってドイツの標的になると考え、1936年10月14日の閣議で、フランスへの従属から独自外交への転換を訴えた。この姿勢は、フランスから「裏切り」と批判され、ドイツからは「フランスからの離反」と讃えられ、国内のフランデレン主義の活動家をも刺激した。
1939年に第二次世界大戦が始まると、国王は中立にこだわり、英仏両軍の駐留を国境にのみ認めた。1940年5月10日、ドイツ軍が宣戦布告なしにベルギーに侵攻した。国王はダンケルクでの抗戦を呼びかけ、兵士を鼓舞した。5月25日の御前会議では、フランスで亡命政府を組織して抗戦しようとする政府と、無条件降伏によってドイツ中心の新秩序の中でベルギーの立場を考えようとする国王の意見が一致しなかった。5月28日、国王は無条件降伏の要求を受け入れ、以後幽閉された。幽閉中の1941年にリリアン・バエルと再婚したが、平民であったため王妃とは認められなかった。一方の閣僚たちはロンドンに亡命し、国王を亡命政府の国王とは認めないと宣言した。チャーチルや英国世論は降伏を裏切りと非難したが、ジョージ6世は、最高指揮官として兵士や国民を見捨てて亡命できない事情を理解し、ガーター勲章を剥奪しなかった。
1944年9月21日、亡命政府は国王の帰還を前提に、王弟シャルルを摂政に立てた。国王一家はドイツとオーストリアに移送され、1945年5月に米軍に解放された。1946年に査問委員会は反逆罪に問わないと決めたが、復位をめぐる論争は続いた。1950年の国民投票では、全体の57.6%が復帰を支持したが、ワロン地域では賛成が50%未満で、フランデレン地域では72%が賛成であり、地域と民族の亀裂が露わになった。7月に帰国すると抗議行動に迎えられ、ストライキは暴徒化して数人の犠牲者が出た。国家の分裂を避けて君主制を維持するため、1951年7月16日に20歳の息子ボードゥアンに譲位した。退位後はアマチュアの社会人類学者として世界を旅し、1961年3月には日本を訪れた。1983年9月25日に没し、アストリッド王妃とともに埋葬された。
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