伝記
ユーリ・ウラジーミロヴィチ・アンドロポフは、1914年6月15日、スタヴロポリ州で、鉄道職員の子として生まれたソビエト連邦の政治家である。16歳でコーカサスのモズドクで労働者として働き始め、コムソモール(共産主義青年同盟)に参加した。1936年にルイビンスクの水上輸送技術専門学校を卒業し、地元の造船所のコムソモール専従書記になった。1938年までにヤロスラヴリ州の党委員会のコムソモール第一書記に昇進し、1939年に共産党に入党した。1940年にはカレロ=フィン共和国の第一書記となった。党規則上、第一書記になるには5年以上の党歴が必要で、異例の出世の速さだったが、スターリンによる粛清で役職に空きができていたためである。
独ソ戦が始まると、カレリアでパルチザンの組織づくりに関わった。実戦には参加していないと見られる。ソ連軍がペトロザヴォーツクを奪還した1944年には、同市の党第二書記に就任した。戦後の1947年にはカレロ=フィン共和国の第二書記となり、ソ連化を進め、1951年に党中央委員会に転属した。1953年には外務省第四欧州部長を経て、駐ハンガリー参事官となり、1954年には同国の大使に昇進した。一見順調だが、モスクワの中枢を離れることを意味しており、当時フルシチョフがスターリン時代の党員を配置転換していたことの巻き添えだったという。
1956年のハンガリー動乱では、ブダペストで重要な役割を果たした。フルシチョフは、強硬なスターリン主義者の首相ラーコシを解任し、ナジ・イムレを後任にしようと考え、アンドロポフを通じて迫った。10月23日にデモが起き、ナジが首相に任命されて、ソ連軍の戦車が入った。ナジはソ連軍の撤退を求め、ソ連も一度は撤退を確認したが、フルシチョフは密かに軍の再出動を決めていた。アンドロポフはモスクワに、群衆の凶悪行為や大量リンチが横行しているという電報を送り続け、これがブダペストへの派兵の決定につながったとされる。ナジの撤兵の要求に対しては、曖昧な回答で時間を稼ぎ、一方で、ソ連の内政不干渉の声明は有効だと確約した。11月3日の撤退合意をめぐる会談の夜、KGBの工作員がハンガリー側代表団を逮捕した。カーダール・ヤーノシュは、アンドロポフの勧告に従ってナジを見限り、新政権を率いることを決意した。11月4日早朝、ソ連軍の戦車1000両がブダペストに侵入し、動乱は鎮圧された。ナジは身の安全を保障する書面を渡されて、ユーゴスラビア大使館を出たところをKGBに逮捕され、1958年6月に処刑された。
1957年にモスクワに戻り、中央委員会の国際局長となった。1962年には中央委員会書記に任命され、1963年には中国を訪問して中ソ論争に加わった。1967年5月19日、KGB議長に就任した。秘密警察の長官が政治局員候補に入るのは、ベリヤ以来のことだった。対外諜報で成果を上げた一方、反体制派の取り締まりのため、1969年に第五管理本部を創設した。1969年にブレジネフの暗殺未遂事件が起きると、犯人を非公開裁判にかけて精神病院に送った。そのような経歴を経て、ブレジネフの死後、ソ連共産党中央委員会書記長、最高会議幹部会議長として、国の最高指導者の地位についた。ブレジネフ時代に蓄積された停滞と腐敗の一掃や、労働規律の強化に乗り出したが、就任後に病に倒れ、十分な成果を挙げられなかった。1984年2月9日に死去した。目をかけて引き立てた同郷の後輩ミハイル・ゴルバチョフに、構想の一部が引き継がれた。
同じ年に亡くなった人物
- ゴ・ディン・トゥク (1984年没)
- リチャード・ブローティガン (1984年没)
- ビッグ・ママ・ソーントン (1984年没)
- モーシェ・フェルデンクライス (1984年没)
- Khashaba Dadasaheb Jadhav (1984年没)
同じ地域に関係する人物
- ゲルマン・チトフ (2000年没)
- ニコライ・ペトロフ (2011年没)
- アラム・ハチャトゥリアン (1978年没)
- ラヴレンチー・ベリヤ (1953年没)
- セルゲイ・ソロヴィヨフ (1879年没)