伝記
ピョートル・レオニードヴィチ・カピッツァは、1894年6月26日(ユリウス暦。グレゴリオ暦では7月8日)、ロシア帝国のクロンシュタットに生まれた物理学者である。父レオニードはベッサラビア出身で、要塞を築く軍事技術者だった。母オリガはヴォルィーニの出で、ポーランドの貴族ステブニツキ家の系統だった。家庭では、ロシア語のほかルーマニア語も話した。1912年にサンクトペテルブルク工科大学に入学し、アブラム・ヨッフェに学んだ。1914年から2年間は、第一次世界大戦のポーランド戦線で、衛生運転手として勤務した。卒業は1918年とも1921年ともいわれる。1918年から1919年のインフルエンザの流行で、妻と二人の子を亡くしたとされる。
イギリスのケンブリッジ大学に移り、1922年にトリニティ・カレッジから博士号を取得した。1925年からはキャヴェンディッシュ研究所で、アーネスト・ラザフォードのもとで10年以上研究した。「カピッツァ・クラブ」という影響力のある会を作り、1930年から1934年までモンド研究所の初代所長を務めた。1920年代には、短時間に大電流を流して超強力な磁場を作る技術を考案し、1928年には、強い磁場の下での金属の抵抗と磁場の強さが直線の関係にあることを発見した。実験物理学者として高い評価を得た。1927年にはアンナ・クルイロヴァと結婚した。父は、ロシアの高名な数学者で海軍の提督でもあったクルイロフで、革命後に一時パリに亡命していた。二人の間には、物理学者となった長男と、地理学者となった次男が生まれた。
1934年、休暇で両親のいるソビエトに帰ったカピッツァを、スターリンは出国させず、彼のための研究所をつくらせた。磁場の実験装置がケンブリッジに残されていたため、ラザフォードがイギリス政府と交渉し、実験設備はモスクワへ送られた。カピッツァは、低温の現象の研究に方向を変え、断熱の原理を用いた、液体ヘリウムを大量につくる装置を開発した。1937年、液体ヘリウムが超流動性を示すことを発見した。1939年には、膨張タービンを使う気体液化装置を発明し、ソビエトの重工業の発展に貢献した。そのため、ソビエトの首脳に対して自由に発言できる立場を得た。強制収容所に入れられたレフ・ランダウを釈放させたのも、彼である。
長い海外生活の影響からか、政府高官に数多くの手紙を送って何かを要求するなど、自由奔放に振る舞ったため、スターリンらソ連指導部の覚えは悪かった。フルシチョフも回想記で、「大科学者だが無礼な男だった」と書いた。1945年11月には、原爆計画を指揮する秘密警察の長官ベリヤと喧嘩し、スターリンに、ベリヤの物理学への無知と傲慢を訴えた。会いたければ研究所に来るよう、ベリヤに言ったという。スターリンはカピッツァを支持し、ベリヤに科学者へ協力するよう命じた。カピッツァは原爆計画への参加を拒んだ。戦後は、モスクワ物理技術大学の創設にも働きかけ、長く教えた。1978年、低温物理学における基礎的な発明と発見により、ノーベル物理学賞を受賞した。1984年4月8日に没した。
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