伝記
マーヴィン・ペンツ・ゲイ・ジュニア、通称マーヴィン・ゲイは、1939年4月2日に首都ワシントンで生まれたアメリカ合衆国のミュージシャンで、作曲家でもある。父はペンテコステ派の説教師マーヴィン・シニア、母はアルバータ、旧姓クーパーであった。地元の教会の聖歌隊に参加したのが、歌手としての第一歩である。歌と同時に、ピアノやドラムなどいくつかの楽器の演奏技術も身につけた。ただ、音楽に没頭するきっかけは、厳格な父による、しつけの範囲を越えた精神的な虐待であり、これは後の人生にトラウマとして残ったという。義務教育を終えて空軍に入隊し、除隊したのち、ドゥーワップのコーラスグループ「マーキーズ」の一員として活動を始めた。いくつかのグループを渡り歩くうちに実力をつけ、公演先のデトロイトで、モータウン・レコードの社長ベリー・ゴーディ・ジュニアにその才能を見出された。このころ、姓の綴りを改めている。
モータウンに雇われた当初は、ドラマーとしても活動し、同レーベルの優れたスタジオ・ミュージシャンと親交を深めた。ソロ歌手として作品を出すうちにシングルの売上げが伸び、社長の実の姉アンナと結婚したことも弾みとなって、「悲しいうわさ」や「プライド・アンド・ジョイ」「ハウ・スウィート・イット・イズ」などのヒット曲を生んだ。1960年代半ばに人気を決定づけたのは、同じレーベルのタミー・テレルとのデュエットで、「エイント・ノー・マウンテン・ハイ・イナフ」など多くの曲を世に送り出した。
1970年にテレルが脳腫瘍により24歳で亡くなると、一時活動を休止した。パートナーの不在と、変わっていく時代の中で自分の音楽性に疑問を持ち始めたことが、大きな要因であった。やがて、ベトナム戦争から復員した弟フランキーと再会したことをきっかけに、新しい音楽性を示すことになる。1971年1月にシングル「ホワッツ・ゴーイン・オン」を発表し、成功を受けて、同年5月に同名のアルバムを出した。楽曲と緻密な編曲は絶賛された。音楽以上に人々に衝撃を与えたのは、ベトナム戦争や公害、貧困といった社会問題を取り上げた歌詞と、それに対する苦悩を赤裸々に表現した歌唱であった。シングル盤が中心だった黒人音楽の世界で、社会情勢を元にしたコンセプト・アルバムを制作するのは画期的だった。モータウンは消極的だったが、本人がセルフ・プロデュースの体制で臨んだことも注目を集め、ダニー・ハサウェイやスティーヴィー・ワンダー、カーティス・メイフィールドらに影響を与えた。
その後は、より私小説的な作品を数多く生み出したが、先妻との泥沼の離婚調停や二度目の結婚生活の破綻、薬物への依存などで、70年代後半は公私ともに低迷した。それでも77年に、ディスコ風の「黒い夜」がビルボードのチャートで1位になった。破産などのどん底からは、才能を惜しむ後援者の援助で復調し、1982年に移籍先のCBSコロムビアから『ミッドナイト・ラヴ』を発表した。「セクシャル・ヒーリング」は全米シングルチャートの3位を記録し、翌1983年にはグラミー賞を受賞した。これが遺作となった。
1984年4月1日の12時半ごろ、自宅で両親の喧嘩を仲裁した際に、父マーヴィン・シニアと口論になった。激昂した父が拳銃を発砲し、至近距離から放たれた2発が胸部と肩に命中して、病院に運ばれる前に死亡した。45回目の誕生日の前日であった。使われた拳銃は、生前に息子が父に贈ったものだったという。父は裁判で故殺と認定され、6年の執行猶予と5年の保護観察を言い渡された。
同じ年に亡くなった人物
- エルンスト・シュテュッケルベルク (1984年没)
- チェスター・ハイムズ (1984年没)
- エンリコ・ベルリンゲル (1984年没)
- エウロヒオ・マルティネス (1984年没)
- レイ・クロック (1984年没)
同じ地域に関係する人物
- ウォルター・ウィンチェル (1972年没)
- マリオ・サビオ (1996年没)
- ジョン・ドール (1971年没)
- フィリップ・アーン (1978年没)
- リチャード・キール (2014年没)