伝記
カウント・ベイシーは、1904年8月21日、ニュージャージー州の小都市レッドバンクで、リリアンとハーヴェイ・リー・ベイシーの子として生まれたジャズピアニスト、バンドリーダーである。本名はウィリアム・ベイシーといい、父は裕福な判事に仕える御者や管理人として働き、のちに複数の家の庭師や雑用係となった。両親にはともに音楽の素養があり、父はメロフォンを、母はピアノを弾いた。母は洗濯の仕事を引き受け、ケーキを焼いて売り、1回25セントのレッスン代を払って、息子にピアノの手ほどきをした。学校で最も成績が良かった彼は、町に来る巡業の見世物に憧れ、旅暮らしを夢見た。中学を終えると、劇場の雑用で無料入場を得て、舞台や無声映画に合う音楽を即興で弾くすべをすぐ覚えた。
生まれつきピアノの才に恵まれていたが、本人はドラムを好んだ。同じレッドバンクにいて、のちにデューク・エリントンのドラマーとなるソニー・グリアの才能に気落ちし、15歳でピアノ一本に絞った。ダンスや行楽地、素人の演芸会の寄せ集めのバンドで演奏し、仕事がない日はビリヤード場に入り浸って、仲間から情報を得た。1920年ごろにハーレムへ出て、ウィリー・ザ・ライオン・スミスらと知り合った。20歳になる前に、ヴォードヴィルの巡業で、ブルース歌手や踊り手、喜劇役者の伴奏や音楽監督を務めた。1925年に再びハーレムに戻り、ファッツ・ウォーラーに出会い、オルガンを教わった。1928年、タルサでウォルター・ペイジ率いるブルー・デビルズを聴き、数か月後に誘われて加わった。この頃から「カウント」と呼ばれるようになったとされる。
1929年にカンザスシティのベニー・モーテン楽団に加わり、リーダーのモーテンが1935年に亡くなると、自らバンドリーダーとなってオーケストラを結成した。1936年に楽団を率いてシカゴで長期の出演をして、最初の録音をした。1936年末にニューヨークへ拠点を移し、1937年にデッカ社から発売された「ワン・オクロック・ジャンプ」などで、そのシンプルで絶妙なサウンドが好評を博し、一躍国際的な名声を得た。ギターのフレディ・グリーン、ドラムのジョー・ジョーンズ、ベースのウォルター・ペイジを擁するリズムセクションは「オール・アメリカン・リズム・セクション」と称賛された。テナーサックスのレスター・ヤングとハーシェル・エヴァンス、トランペットのバック・クレイトンらのソリストが競い合い、専属シンガーにはジミー・ラッシングとビリー・ホリデイがいた。「オールド・ベイシー」と呼ばれる初期の黄金時代である。
1940年代後半、戦後の不況でビッグバンドの経営が成り立たなくなると、バンドは一時解散し、ベイシーも小編成での活動を余儀なくされた。1951年に盟友のグリーンとともにビッグバンドを再結成し、サド・ジョーンズらを迎えた。ヴァーヴ社と契約して、ニール・ヘフティやクインシー・ジョーンズらの編曲で数々の名盤を残した時代は「ニュー・ベイシー」と呼ばれる。ピアノはストライド奏法の名手だったが、楽団の中では必要な場所だけを叩く簡素な演奏に変わった。「スウィングの王様」と称され、1984年4月26日、膵臓癌によりフロリダ州ハリウッドの病院で79歳で死去した。
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