伝記
マルティン・ルターは、ドイツの神学者で、教授、聖職者、作曲家でもあり、聖アウグスチノ修道会に属した。宗教改革の中心人物であり、1517年に『95ヶ条の論題』をヴィッテンベルクの教会に掲出したことを発端に、カトリック教会から分かれたプロテスタントが誕生した。1483年11月10日、鉱山業に従事していた父ハンスと母マルガレータの次男として、ザクセン地方の小村アイスレーベンに生まれた。洗礼の日がトゥールのマルティヌスの祝日だったことにちなんで、マルティンと名づけられた。農民から鉱夫、製錬所の経営者へと身を起こした父は上昇志向が強く、子供たちにも常に上を目指すよう求め、その厳格さは、のちにルターが冷酷で厳格な神のイメージを持つ上で強い影響を及ぼしたとされる。生後半年ほどで一家はマンスフェルトへ移り、教会付属学校に通った。13歳でマクデブルクへ、15歳から17歳にはアイゼナハの修道院校で学び、1501年に法律家になるべくエアフルト大学に入学した。
転機は、法学部に入った1505年に訪れた。大学へ向かう途中、エアフルト近郊の草原で激しい雷雨にあい、落雷の恐怖に死を予感して「聖アンナ、助けてください。修道士になりますから」と叫んだという。両親は修道院入りに反対し、結婚して父の後を継ぐことを望んだが、父の同意も得ないまま大学を離れて、エアフルトの聖アウグスチノ修道会に入った。1507年に司祭に叙階されたが、初ミサで、弱い人間が巨大な神の前に直接立っていることに恐れさえ覚えた。熱心に祈っても心の平安が得られず、長上で聴罪司祭のシュタウピッツの励ましでも、その恐れは取り除けなかった。創設間もないヴィッテンベルク大学で哲学と神学の講座を受け持ち、のちに神学博士号を取って聖書注解を講じた。
このころ心を捉えたのが、パウロの『ローマの信徒への手紙』にある「神の義」の思想だった。どれほど善行を積んでも神の前で自分が義であるとは言えないという現実に苦しんだ末、人間は善行ではなく信仰によってのみ義とされ、義とするのはすべて神の恵みだという理解に達し、ようやく心の平安を得た。これが「塔の体験」と呼ばれ、のちの「信仰義認」の発想となった。
当時ドイツでは贖宥状の販売が盛んだった。背景には、マインツ大司教アルブレヒトが複数の司教位保持の特別許可を得るため、教皇庁へ多額の献金をする必要があり、領内での販売の独占権を得て稼ごうとした事情がある。ドミニコ会修道士テッツェルらが説教師に任命され、人々が群がった。ルターが特に問題としたのは、贖宥状の購入で煉獄の霊魂の償いが行えるという宣伝だった。1517年10月31日、アルブレヒトに書簡を送ったが、これが『95ヶ条の論題』である。論題は一般の人に読めないラテン語で書かれ、ルターは純粋に神学の問題として考えていたとされる。だが論題はすぐにドイツ語に訳されて広まり、教会への不満に火をつけた。この頃から、父の姓のルダーを改めてルターと名乗り始めた。
ヨハン・エックとの論争や、1518年のアウクスブルクの審問を経て、ルターは「聖書に明白な根拠がない限り認められない」と主張した。1520年には『ドイツ貴族に与える書』などを発表し、レオ10世の回勅を市民の面前で焼いた。1521年の回勅で破門が正式に通告され、同年4月、ヴォルムス帝国議会に召喚されて、自説の撤回を拒絶した。その後、賢公フリードリヒ3世のもとに身を寄せ、ヴァルトブルク城にかくまわれた。ルターは1546年2月18日に没した。
同じ年に亡くなった人物
- デイヴィッド・ビートン (1546年)
- マリーノ・グリマーニ (1546年没)
- ジュリオ・ロマーノ (1546年没)
- フランシスコ・デ・ビトリア (1546年没)
- ペリーノ・デル・ヴァーガ (1546年没)
同じ地域に関係する人物
- John Adolphus I, Duke of Saxe-Weissenfels (1697年没)
- ディーデリヒ・フランツ・レオンハルト・シュレヒテンダール (1866年没)
- John Louis II, Prince of Anhalt-Zerbst (1746年没)
- ヨハン・シュヴァイガー (1857年没)
- アルブレヒト3世 (ザクセン選帝侯) (1419年没)