伝記
フランソワ1世は、ヴァロワ朝の第9代フランス国王(在位1515年〜1547年)である。1494年9月12日、アングレーム伯シャルル・ドルレアンと、サヴォイア公フィリッポ2世の娘ルイーズ・ド・サヴォワとの間に、長女マルグリットに次ぐ第2子としてコニャックで生まれた。ジャンヌ・ダルクの戦友ジャン・ド・デュノワは大叔父にあたる。父シャルルは1496年に世を去り、フランソワは1歳3か月余りでアングレーム伯を継いだ。1498年に即位したルイ12世に男子がなかったため、サリカ法により従甥のフランソワが王位継承者とされた。1514年にはルイ12世の娘で又従妹のクロードと結婚して共同のブルターニュ公となり、翌1515年、ルイ12世の死により王位を継いだ。
人文主義者の教育を受け、即位後はレオナルド・ダ・ヴィンチ、ロッソ・フィオレンティーノらの芸術家を保護し、ルネサンス様式の宮殿を建てた。1530年には、後のコレージュ・ド・フランスとなるコレージュ・ロワイヤルを設立し、ヘブライ語、古代ギリシア語、数学の研究を促した。こうした文芸保護の業績から、「フランス・ルネサンスの父」と呼ばれ、騎士王とも称される。国内では王権の強化に努め、議会の支援がなくても資金を調達できるよう、王の直轄財産と徴税権を担保とした年金型の長期国債を考案し、税収増を目的とする一連の行政改革を実施した。これらの改革は次代のアンリ2世にも受け継がれた。
対外的には、2代前の国王シャルル8世が始めたイタリア戦争を継続した。1515年にマリニャーノの戦いに勝利してミラノ公国を占領し、スフォルツァ家を追放した。翌年、スフォルツァ家に仕えていたレオナルド・ダ・ヴィンチがフランスへ移り、アンボワーズ城界隈のクロ・リュセ城に居住した。1516年には、教皇レオ10世とのボローニャの政教協約で、大司教・司教・大僧院長の指名権を国王が持つことを承認させ、フランスの国家教会主義を完成させた。1519年に皇帝マクシミリアン1世が没すると、フランソワも皇帝位の候補となったが1票も獲得できず、スペイン国王カルロス1世がカール5世として即位した。これにより、フランスはハプスブルク家に囲まれる状況が固定化した。
1521年から1544年にかけては、イタリアをめぐってカール5世と争った。1525年のパヴィアの戦いでは前線で指揮を執ったが捕虜となり、スペインで幽閉されていた間の1526年にマドリード条約を結んだものの、解放されるや条約は無効と宣言した。カール5世に対抗するため、コニャック同盟で教皇やヘンリー8世らと結び、ドイツのプロテスタント諸侯を支援し、オスマン帝国のスレイマン1世とも密かに結びついて、第一次ウィーン包囲をけしかけたともいう。フランソワ自身はカトリックで、檄文事件をきっかけに国内のプロテスタントを弾圧した。1529年のカンブレーの和約でイタリアの放棄を約束し、1530年にはカール5世の姉レオノールと再婚したが、以後も戦闘を続け、1544年にクレピーの和約を結んでイタリア政策は失敗に終わった。
1547年3月31日、ランブイエで死去した。長男フランソワに先立たれていたため、次男アンリがアンリ2世として即位した。またジャック・カルティエをカナダ植民に送り出し、ヌーベルフランスの基礎を築いたとされる。
同じ年に亡くなった人物
- アルブレヒト7世 (メクレンブルク公) (1547年没)
- フリデリク2世 (レグニツァ公) (1547年没)
- ヨハネス・シェーナー (1547年没)
- Jacopo Sadoleto (1547年)
- アンナ・ヤギエロ (1547年没)
同じ地域に関係する人物
- アントワーヌ・フォルクレ (1745年没)
- ミスタンゲット (1956年没)
- ポンパドゥール夫人 (1764年没)
- ピエール=ナポレオン・ボナパルト (1881年没)
- ジャン=ピエール・ジャブイーユ (2023年没)