伝記
キャサリン・パーは、イングランド王ヘンリー8世の6番目にして最後の王妃(1543年結婚、1547年死別)である。1512年に生まれ、北イングランドの名門ジェントリの家の長女として育った。父トマス・パーはヘンリー8世の友人で、1513年のスパーズの戦いにも参加したとされ、母モード・グリーンは、先の王妃キャサリン・オブ・アラゴンの親しい侍女だった。キャサリンという名は、この王妃にちなむとする研究者もいる。父はキャサリンが幼いころに世を去り、母のそばで育った。当時の貴族の娘の標準的な教育を受けたが、学ぶことへの情熱を生涯持ち続けた。フランス語、ラテン語、イタリア語に堪能で、王妃となってからはスペイン語も学んだ。幼いころは刺繍を嫌い、母に「私の手は王冠と王笏に触れるためのもので、糸巻きと針のためではない」と皮肉まじりに言ったと伝えられる。
若くして最初の結婚をし、21歳で二度目の結婚をしたが、いずれの夫も病死した。二人目の夫の死後、ヘンリー8世の3番目の妃ジェーン・シーモアの兄トマスと交際を始めたが、宮廷に出入りするうちに51歳のヘンリーに見初められた。ヘンリーは邪魔なトマスを公務で海外に送り、キャサリンに求婚した。過去に2人の妻との婚姻を無効とし、2人の妻を断頭台に送った王の求婚に、キャサリンは逡巡したが、1543年に31歳で結婚した。
王妃となると、庶子の身分に落とされていたメアリーとエリザベスを宮廷に呼び戻し、王位継承権を回復するよう王に嘆願し、これが1543年の第三王位継承法につながった。ヘンリーと対等に学術談義ができる知性を備え、特に神学に造詣が深かった。幼いエドワードとエリザベスの養育を任され、教育環境を整えて、音楽などの芸術への関心も導いたため、王の子女たちは優しい継母を敬愛した。エリザベスは彼女を「大好きなお母様」と呼んだ手紙が残る。晩年のヘンリーは肥満で、脚の腫瘍と頭痛に苦しんで寝込むことが多く、激昂すると手がつけられなかったが、キャサリンは王の看護を侍医に任せきりにせず熱心に行い、信頼を得た。1544年、ヘンリーがフランス遠征をした間は摂政を任され、万一王が亡くなればエドワードが成人するまで摂政を務めることになっていた。彼女はイングランド王妃として初めて著書を出版している。だが、宗教改革で旧教と国教会の対立が続くなか、ルターの福音主義の教義を学んでいたことから、カトリック側の怒りを買い、異端者だとの報告が王にもたらされた。1546年に異端の追及が厳しくなり、逮捕状まで書かれたが、キャサリンは証拠となりうる書物を処分し、王に自らの信仰の潔白を説いて許された。
1547年1月28日にヘンリー8世が崩御すると、キャサリンは2月末にエドワード6世の戴冠式を見届けると早々に宮廷を退き、5月に、かつての恋人である海軍卿トマス・シーモアと再婚した。エリザベスは二人のもとに引き取られた。ヘンリーは遺言で、キャサリンを王太后ではなく引き続き王妃の格式で遇し、年7000ポンドの歳費を国庫から生涯支給するよう定めていた。11月に妊娠がわかったが、野心家のトマスがエリザベスと親密になり、妊娠中の妻をよそにエリザベスの寝室に出入りしているところを見とがめられて、エリザベスはシーモア家を出ざるを得なくなった。1548年8月30日に女児メアリーを産んだキャサリンは、産褥熱にかかり、9月5日に世を去った。
同じ年に亡くなった人物
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- Pascual de Andagoya (1548年)
- フアン・デ・スマラガ (1548年没)
- フアン・ディエゴ (1548年没)
- コンラート・ポイティンガー (1548年)
同じ地域に関係する人物
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- パメラ・ブラウン (1975年没)
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