HISTORICAL PERSON · 1985年没

ダイアン・フォッシー

ルワンダの森でマウンテンゴリラの生態を18年間調査した米国の霊長類学者。著書『霧のなかのゴリラ』は映画化されたが、1985年に何者かに殺害された。

生涯
1985年没
死亡地
ルワンダ共和国(北部州 / カリソケ研究センター)
出生地
アメリカ合衆国(サンフランシスコ)
出典
世界地図
ルワンダ共和国(北部州)

伝記

ダイアン・フォッシーは、1932年1月16日にカリフォルニア州サンフランシスコで生まれたアメリカの霊長類学者である。チンパンジーを研究したジェーン・グドールらと並んで、著名な霊長類学者の三人に数えられる。父は保険販売員のジョージ・フォッシー、母は雑誌のモデルをしていたキャスリーンである。3歳のころに両親が離婚し、5歳のころ母は建築士のリチャード・プライスと再婚した。義父はダイアンを自分の子として扱わず、同じ食卓につくこともなかった。愛されなかった彼女は動物に関心を向け、初めてのペットに金魚を飼い、生涯にわたって動物に愛情を注いだ。6歳で始めた乗馬は、馬場馬術を習得するまでになった。

高校を出ると、義父の勧めで大学に進み経営学を学んだが、動物への情熱を抑えられず、獣医を目指してカリフォルニア大学デービス校に入り直した。親の意思に背いたため経済的な援助を失い、在学中はディスカウントストアの事務員や、工場の機械オペレーターとして働いた。しかし化学と物理学の単位を落として進級できず、学費の安いサンノゼ州立大学に移って作業療法を学び、1954年に学士号を取得した。卒業後は各地の病院で働きながら馬術の腕を磨き、馬産地のケンタッキー州に移って病院に勤めた。内気で人付き合いが苦手だったが、子供たちとはうまく付き合えた。同僚の家に部屋を借り、家畜の世話をする日常のなかで、それまでの人生に欠けていた家族の温かみに触れた。

同僚夫妻にアフリカ旅行へ誘われたが、いったんは金銭的に断った。それでも年収とほぼ同額の8千ドルを借金し、1963年に7週間のアフリカ旅行に出た。タンザニアのオルドヴァイで、ヒト科の化石を調べていた古生物学者のルイス・リーキーと出会った。リーキーから大型類人猿の調査の重要性や、グドールの業績を聞き、ウガンダでは初めて野生のマウンテンゴリラと出会った。帰国後はゴリラに関する論文を雑誌に載せた。講演旅行でケンタッキーを訪れたリーキーが、彼女の関心を覚えていて、最初の出会いから3年後に、グドールのチンパンジー調査と同様の調査を、マウンテンゴリラで行うよう提案した。仕事を辞め、8か月かけてスワヒリ語と霊長類学を学んだのち、1966年にナイロビに到着した。1967年にコンゴで調査を始めたが、政情不安のため兵士に捕らえられ、脱出してウガンダに逃れた。リーキーの助言で、ヴィルンガ山地のルワンダ側で調査を再開した。

ルワンダの標高3000メートルの高地に、カリソケ研究センターを設立した。当初、ゴリラの群れには近寄れなかったが、行動をまねることで接近に成功した。鼻紋によって個体を識別した。この地は禁猟区のはずだったが、密猟は絶えず、フォッシーは保護基金を設立し、スタッフに見回りをさせ、密猟者の罠を数多く壊した。1977年、お気に入りのゴリラ、ディジットが群れを守ろうとして密猟者に殺され、手は切り取られた。彼女は基金を設立して寄付を集めたが、次第に科学的な調査よりも密猟反対の運動に時間を注ぐようになり、活動は過激になった。ゴリラは人間の伝染病への免疫を持たないことが多く、野生動物を目的とする観光にも反対した。ヘビースモーカーで肺の病気に苦しみ、酸素ボンベが欠かせなくなった。1985年12月26日ごろ、小屋の寝室で斬り殺された姿で見つかった。現金や貴重品は盗まれておらず、事件は未解決となっている。1983年の著書『霧のなかのゴリラ』が、のちに映画化された。

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