伝記
ハインリヒ・テオドール・ベルは、1917年12月21日にドイツのケルンで、教会の木工品を専門とする彫刻家で家具職人のヴィクトルと、その後妻マリアの子として生まれた作家である。カトリックの平和主義的で進歩的な家庭で、8番目の子、3番目の息子だった。先祖は船大工で、ヘンリー8世の国教を嫌って英国の島々を離れた人々だったといい、オランダからライン川をさかのぼり、やがて指物師になった。1924年から1928年までケルン南部のラーダータールのカトリックの小学校に通い、のちに古典語課程のギムナジウムに進んだ。1933年にナチスが政権につくと、同級生の大多数がヒトラー・ユーゲントに加わる中で、不参加を守り続けた数少ない生徒の一人だった。学校の教師たちは、大半が民主主義者で、教会と同様に受動的な抵抗の空気を広げていたと、のちに語っている。
高校卒業後の1937年、ボンの書店に弟子入りしたが、戦争が近いと察して11か月で辞めた。1939年の夏にケルン大学に入学してドイツ語を学び、最初の長編を書いた。しかしその夏の終わりに国防軍に召集され、第二次世界大戦中は、ポーランド、フランス、ルーマニア、ハンガリー、ソ連を転戦し、四度負傷した。休暇中の1942年に結婚し、息子が生まれたが、この子は1945年に亡くなった。1944年には母が空襲で亡くなった。1944年から45年の冬には、行軍命令を偽造して脱走し、妻のもとで3か月を過ごしたが、軍法会議での銃殺を恐れて部隊に戻った。1945年4月にアメリカ軍に捕らえられ、捕虜収容所に送られた。凍傷で足の指をすべて失い、生涯、病院への通院を余儀なくされた。
戦後の1946年から短編小説を書き始め、1949年に最初の長編『汽車は遅れなかった』を出版した。1951年に『黒羊』で47年グループ賞を受け、1953年の『そして一言も言わなかった』で名声を広めた。これらの作品は「廃墟の文学」と呼ばれた。1971年に発表した『女のいる群像』などにより、1972年にノーベル文学賞を受賞し、1946年のヘルマン・ヘッセ以来のドイツ人受賞者となった。1970年代に西ドイツで過激派のテロが活発になったとき、1972年1月の『シュピーゲル』誌上でテロに対する冷静な対応を訴えて、ジャーナリズムから袋だたきにされ、テロリスト同調者とまで呼ばれた。1974年に大衆新聞のあくどさを描いた『カタリーナ・ブルームの失われた名誉』は、120万部を超える空前のベストセラーとなった。作品は30以上の言語に翻訳された。
1969年からは西ドイツペンクラブの会長、1971年からは国際ペンクラブの会長を務めた。作品は資本主義の暗い側面を描き、西側諸国だけでなくソ連や東欧諸国でも多くの読者を得た。アレクサンドル・ソルジェニーツィンがソ連から追放されたとき、最初に避難したのはベルの家であった。1983年にケルンの名誉市民に選ばれた。作品の悪役は、政府や実業界、教会の権力者たちであり、彼らは権力を乱用し、勇気を欠き、自己満足の姿勢を見せた。ナチス時代から核弾頭ミサイルの配備までの西ドイツの歴史を描き続けたことから、「連邦共和国の批判的年代記作家」とも呼ばれた。1985年7月16日に67歳で死去した。遺作は『河の風景に立つ女たち』である。
同じ年に亡くなった人物
- カルロス・P・ロムロ (1985年没)
- アクセル・アイロ (1985年没)
- B・E・マルカリアン (1985年没)
- 坂本九 (1985年没)
- アクセル・シュプリンガー (1985年没)
同じ地域に関係する人物
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- ハンス・リーゲル (2013年没)
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- ヨハネス・レーア (2016年没)
- レオポルト1世 (リッペ侯) (1802年没)