伝記
エンヴェル・ハリル・ホッジャは、1908年10月16日、当時オスマン帝国統治下だったアルバニア南部のジロカストラで、イスラム教徒の家庭に生まれた政治家である。ホッジャ家はベクタシュ教団に属していた。父ハリルは布の商人で、叔父ハイセンは、アルバニア独立運動の闘士として、1912年の独立宣言に署名した人物である。ホッジャは叔父の影響を強く受け、1928年にゾグー1世が政権を握ると、その考えをさらに強くした。1927年にはコルチャの国立高校に入った。そこでフランスの文学や哲学者の影響を受け、地元の小さなマルクス主義のグループから、共産党宣言を読む機会を得た。
1930年、奨学金を得てフランスのモンペリエ大学に入ったが、政治への関心が強まり、1年ほどで退学して、フランス共産党に入党した。機関紙『ユマニテ』に、アルバニア王国政府を批判する論文を載せた。1934年から、ブリュッセルのアルバニア領事の秘書を務めながら大学で法律を学んだ。1936年に、領事がマルクス主義との関わりを知って解雇したため、アルバニアに帰国し、コルチャで中学校の教師になった。1939年4月にイタリアがアルバニアに侵攻すると、アルバニア・ファシスタ党への参加を拒んだために、教職を解雇された。ティラナでたばこ屋を開き、間もなくそこには共産主義者が集まるようになった。
ホッジャはチトーらユーゴスラビアのパルチザンの支援を受け、1941年11月に、アルバニア共産党(1948年からはアルバニア労働党)を結成して、レジスタンス運動を展開した。同党は1944年11月に政権を樹立し、ホッジャが首相に就いた。1946年にアルバニア人民共和国の建国を宣言して最高指導者となり、正統派のマルクス・レーニン主義を掲げて、スターリンを崇拝した。1948年にはソ連と対立したユーゴスラビアと国交を断ち、1949年には、ユーゴスラビアとの関係を支持した国防大臣を処刑した。1954年に首相職をシェフーに譲ったが、労働党第一書記として権力を握り続けた。スターリンの死後、フルシチョフが「スターリン批判」を行うと、ソ連との関係を絶ち、1968年にはワルシャワ条約機構を脱退した。その後は中華人民共和国に接近した。1967年には、中国の文化大革命の影響もあって、「世界初の無神国家」を宣言し、全国の教会とモスクを閉鎖させて、あらゆる信仰の表明を違法とした。一方、農業や教育を重んじて、識字率を5パーセントから98パーセントに上げ、食糧の自給も達成したという。
しかし、1972年のニクソン大統領の訪中を批判し、1976年に毛沢東の葬儀に出席したものの、中国が反共的な国々と国交を結んだことなどを非難して、中国からの援助は途絶えた。1978年には、「アルバニアは世界で唯一のマルクス・レーニン主義国家である」と宣言し、独自のホッジャ主義を提唱した。チトーやチャウシェスク、金日成にまで批判を向けて、共産圏の中でも孤立を深め、国際社会から隔離された鎖国状態に入った。1981年には、数名の党・政府高官の処刑を命じ、新たな粛清を行った。同年、首相のシェフーが自殺したと伝えられた。
1985年4月11日に死去した。遺言により、外国政府の弔問はことごとく拒否され、ソ連からの弔電は突き返された。1988年には、ティラナにピラミッド形の霊廟が開館した。死後、後継者ラミズ・アリアのもとで開放が進み、1990年に一党独裁を放棄した。1992年に霊廟は閉鎖され、遺体はより小さな墓地に改葬された。
同じ年に亡くなった人物
- エルンスト・エピック (1985年没)
- ウィリアム・スティーブンソン (1985年没)
- リュシアン・ミシャール (1985年没)
- セゲー・ガーボル (1985年没)
- アベ・レンストラ (1985年没)
同じ地域に関係する人物
- Xhanfize Keko (2007年没)
- レカ・ゾグ (1939-2011) (2011年没)
- ネジミエ・ホッジャ (2020年没)
- Marie Kraja (1999年没)
- ハジ・レシ (1998年没)