HISTORICAL PERSON · 221年没

文昭皇后甄氏

魏の文帝曹丕の妻で明帝曹叡の母。袁煕の妻だったが曹丕に見初められ、寵愛が薄れて死を賜った。詩の塘上行を残し、曹叡が文昭皇后を追贈。曹植の洛神賦のモデルとの伝説があり、民間では水仙の花神として祀られる。

生涯
221年没
死亡地
Ji
出生地
中華人民共和国(河北省 / 無極県)
出典
世界地図
中華人民共和国(河北省)

伝記

文昭皇后甄氏は、魏の初代皇帝である曹丕(文帝)の妻で、第2代皇帝曹叡(明帝)の母である。冀州中山郡毋極県の出身で、183年に生まれ、221年に亡くなった。諱は伝わっていない。曹叡が即位してから文昭皇后を追贈された。父は上蔡県令で、代々2千石の高官を出す家柄であったが、父は彼女が3歳ほどのときに亡くなったとされる。兄に甄豫・甄儼・甄堯、姉に甄姜・甄脱・甄道・甄栄がおり、子は曹叡と、早世した娘の東郷公主である。

幼いころから聡明で、慎み深い性格であった。8歳のとき、姉たちが家の外の騎馬の曲芸を楼から見ようとしても加わらず、理由を問われて「女子の見るものでしょうか」と答えたという。9歳で書物に関心を持ち、兄たちに女のすべきことを学ぶよう言われると、賢い女性は昔の人の成功と失敗から学んだのだから、本を読まずにどうして学べようかと答えた。10歳ほどのころ、乱世で飢える人が多い中、家には穀物の蓄えがあり、それを貴重な品と交換しようとする動きがあった。彼女は母に、乱世に高価な品を持つこと自体が過ちになる、隣人が飢えているので余った穀物を同郷の人々に分け与えようと勧め、家族は褒めてこれに従った。14歳で次兄の甄儼が亡くなると深く悲しみ、その未亡人を敬い、甄儼の子の養育も手伝った。嫁たちに厳しかった母に、嫁を娘のように愛するよう言って、母を涙させたともいう。

建安年間の中ごろ、袁紹の次男である袁煕の妻となった。袁煕が幽州の統治に赴いても彼女は同行せず、鄴に残って袁紹の妻の劉夫人に仕えた。建安9年(204年)に曹操が鄴を攻め落としたとき、曹丕が袁紹の屋敷に入り、甄氏を見初めて自分の妻にしたという。曹丕の寵愛を受けて曹叡と娘を産んだ。姑の卞夫人との関係は良好だったといわれ、曹操が孫権を討つ遠征のとき、卞夫人や曹丕、曹叡が従う中、甄氏は鄴に留まった。のちに卞氏が病気になると、甄氏は気にかけて泣き続け、これを知った卞氏は何と親孝行な娘かと感嘆した。曹丕が妻の任氏を廃そうとしたときには、任氏が放逐されれば自分のせいだと言われると案じ、固く思いとどまるよう請うたが、曹丕は聞き入れなかった。

しかし曹丕の寵愛は次第に薄れ、郭貴嬪(のちの郭皇后)や李貴人・陰貴人に移っていった。黄初元年(220年)に曹丕が即位しても、甄氏は皇后に立てられなかった。さらに山陽公劉協(後漢の献帝)の2人の娘が入内すると、悲嘆した甄夫人は文帝に恨み言を述べた。これが文帝の怒りに触れ、黄初2年(221年)6月に死を賜った。死ぬとき、文帝は青い気が地から天まで立ち昇る夢を見て周宣に尋ね、周宣は、天下のどこかで高貴な女性が冤罪で死ぬでしょうと答えた。文帝はすでに死を賜う書を使者に届けさせており、後悔して使者を追わせたが、間に合わなかったという。『塘上行』という詩を一首残している。

没後、曹叡は一時、平原侯に降格され、後継者として扱われなかったが、曹丕の病が重くなると皇太子に指名された。即位した曹叡は、母に皇后を追贈し、「その英知によって世を啓蒙した」との意味をこめて「昭」の諡を贈った。また一族を厚遇し、甄氏の甥の甄像を伏波将軍に任じ、甄家の男子を列侯に取り立てた。太和4年(230年)に改葬して朝陽陵とし、河南省安陽市には現在も「甄皇后陵」と呼ばれる塚が残る。後世には、曹植に慕われたとする伝説が加わって洛水の女神のイメージと重ねられ、傾国の美女として知られるようになり、水仙の花神として祀られるに至った。

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