伝記
アルタバノス4世は、アルサケス朝パルティアの王で、224年に没した。在位は216年から224年とされる。ヴォロガセス5世の息子で、弟にあたる。ヴォロガセス5世が208年に死ぬと、兄のヴォロガセス6世が即位した。当初は兄の統治に異論はなかったが、やがて兄弟の対立は深まり、アルタバノス4世はメディア地方を拠点に反乱を起こした。その時期は216年とされるが異説があり、争いは213年頃に始まったとも考えられている。
アルタバノス4世はメディアやスサを含む帝国の大部分を押さえ、ヴォロガセス6世はセレウキアを中心とする小さな領域を保つにとどまった。バビロニアを除くパルティア領のほとんどが弟の支配下に入ったと伝えられる。ローマ皇帝カラカラは兄弟の争いにつけこもうとして、哲学者アンティオコスとティリダテスという二人の亡命者の引き渡しをヴォロガセス6世に求め、侵攻の口実を得ようとした。しかしヴォロガセス6世が215年に二人を送り届けたため、口実は得られなかった。カラカラはアルメニアへの侵攻にも失敗し、次にアルタバノス4世に自分の娘との結婚を求めたが、これは断られた。この求婚が本気だったかどうかには議論がある。ローマが交渉相手をヴォロガセス6世からアルタバノス4世へ替えたことは、後者が優位に立ったことを示すとされる。
217年、カラカラはメディアに侵攻し、要衝アルベラを陥落させた。アルタバノス4世はやがて反撃に移り、ニシビスでローマ軍の進出を食い止めた。カラカラの死後にマクリヌスが皇帝となると講和会議が開かれたが、いったんは不調に終わって再び戦端が開かれた。最終的にアルタバノス4世はニシビスでローマ軍を破って侵攻を退け、翌年に和平が結ばれ、アルサケス朝はメソポタミアの大部分を保った。だがヴォロガセス6世はなお貨幣を鋳造して対抗を続け、兄との争いは残った。
224年頃、従属王国のうち最大のペルシス王国で、パーパクに代わってアルダシール1世が王位に就いた。アルダシール1世はただちに反旗を翻し、キルマーンなど周辺地域の征服を進めた。当初アルタバノス4世はこれを重く見なかったが、のちに自ら鎮圧に向かった。戦争は長期にわたったとされる。両軍はミフルの月の末、すなわち4月にホルミズドハーンで会戦することで合意したという。ところがアルダシール1世は期日より前に現地へ着き、有利な場所を占め、塹壕を掘り、泉を押さえた。その兵は騎兵1万で、一部はローマのものに似た柔軟な鎖帷子をつけていた。アルタバノス4世の軍は数で勝ったが、動きにくい札甲のために不利だったという。224年4月28日の戦いでアルタバノス4世は敗れ、殺害された。
勝ったアルダシール1世は諸王の王を名乗り、スーレーン氏族をはじめ有力な貴族も彼の覇権を認めるようになった。ヴォロガセス6世も228年に滅ぼされ、パルティア王国は滅亡し、サーサーン朝ペルシアが成立した。アルタバノス4世の息子アルタヴァスデスはなお抵抗したが、捕らえられてクテシフォンで処刑された。アルタバノス4世の首席書記官ダード・ウィンダードもその後アルダシール1世に処刑された。アルダシール1世は勝利を記念して、故郷ペルスの王都アルダシール・フワッラ(現在のフィルザバード)に二つの岩壁浮彫を刻ませ、その一つにはアルタバノス4世を打ち倒す場面が描かれている。娘の一人はアルダシール1世の妻となり、王権の血統的な正当性を与える役割を負ったとされる。
同じ年に亡くなった人物
- ユリア・マエサ (224年没)
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