伝記
杉原千畝は、1900年(明治33年)1月1日に岐阜県で生まれ、1986年(昭和61年)7月31日に没した外交官である。第二次世界大戦が勃発した1939年からリトアニアのカウナス領事館に赴任し、ナチス・ドイツの迫害を逃れてヨーロッパ各地から来た難民たちの窮状に同情して、1940年7月から8月29日にかけて、大量の通過査証を発給した。根井三郎とともに日本経由で避難民を救ったことで知られ、その多くがユダヤ系であった。「東洋のシンドラー」などとも呼ばれる。
岐阜県武儀郡上有知町、現在の美濃市で、税務官吏の父好水と母やつの次男として生まれた。父の転勤により、福井県、三重県、岐阜県の中津などを転々とし、1907年12月に父が韓国統監府に聘用されて単身赴任してからは、名古屋に住んだ。1912年に名古屋古渡尋常小学校を全甲の優秀な成績で卒業し、旧制愛知県立第五中学校に入学した。卒業後、朝鮮の京城にいた父は、千畝に京城医学専門学校へ進んで医師になることを望んだが、医師になるのが嫌だった千畝は、入試で白紙答案を出して帰宅した。英語教師になるつもりで、父の意に反して、1918年4月に早稲田大学高等師範部英語科の予科に入学した。ペンの先に小さなインク壺を紐で下げて耳にはさんで登校するなど、風変わりな格好で通い、授業中はほとんどノートをとらず、講義の内容を全て暗記していたという。
父の意に反した進学だったため仕送りはなく、牛乳配達など複数のアルバイトを掛け持ちしたが、米騒動でアルバイト先が次々に倒産し、学費と生活費をまかなえなくなった。図書館で官報の掲示により外務省留学生試験を知り、猛勉強の末に合格した。1919年11月に早稲田大学を中途退学して官費留学生となり、今後のロシア語の重要性を説く試験監督官の勧めでロシア語を選び、中華民国のハルビンに派遣された。ハルビン学院で聴講生としてロシア語を学んだ。1924年に外務省書記生となり、母校ハルビン学院でロシア語講師を務めた。1926年には600ページあまりの報告書『ソヴィエト聯邦國民經濟大觀』を書き上げ、26歳でロシア問題のエキスパートとして頭角を現した。
1932年3月に満洲国の建国が宣言されると、ハルビンの総領事館にいた千畝は、満洲国政府の外交部に出向した。1933年には、ソ連との北満洲鉄道の譲渡交渉に携わり、満洲国が1億4,000万円と従業員の退職金3000万円を負担する協定が結ばれた。ソ連側が当初要求した額は荒唐無稽なほど高く、杉原らによる有利な協定の締結は、外交的勝利であった。ところが1935年には満洲国外交部を退官した。関東軍の橋本欣五郎から間諜になるよう強要されたが、これを拒否し、「驕慢、無責任、出世主義」の職業軍人が充満する満洲国に、ほとほと嫌気がさしたからだという。関東軍が、白系ロシア人の前妻クラウディアをソ連のスパイと噂する風説を流したことが、離婚の決定的な理由になった。この時期に正教会の洗礼を受けた。帰国後は菊池幸子と結婚し、外務省に復帰した。
1937年にヘルシンキの日本公使館に赴任した。当初は念願のモスクワの大使館に赴任する予定だったが、ソ連側が白系ロシア人との親交を理由に赴任を拒絶した。バルト三国を初めとするソ連周辺国には、千畝を含む6名ものロシア問題の専門家が同時に発令されたが、これはノモンハン事件での敗北により、対ソ諜報が急務になったためという。1938年3月には、駐仏大使が、千畝を至急パリの大使館に転任させてほしいと、外務大臣に直訴した。
同じ年に亡くなった人物
- フェルディナンド・ダウチーク (1986年没)
- オラフ・ホフスバッケン (1986年没)
- Moderato Wisintainer (1986年没)
- オットー・プレミンジャー (1986年没)
- Policarpo Ribeiro de Oliveira (1986年没)