HISTORICAL PERSON · 1986年没

シモーヌ・ド・ボーヴォワール

女性解放思想の草分けとされる『第二の性』を著したフランスの哲学者・作家。自伝小説『レ・マンダラン』でゴンクール賞を受賞した。

生涯
1986年没
死亡地
フランス共和国(パリ / 14区)
出生地
フランス共和国(6区)
出典
世界地図
フランス共和国(パリ)

伝記

シモーヌ・ド・ボーヴォワールは、1908年1月9日、パリ6区のモンパルナス大通りに生まれたフランスの哲学者、作家、批評家、フェミニストである。父ジョルジュはパリ控訴院の弁護士で、母フランソワーズはヴェルダンの裕福な銀行家の娘だったが、翌1909年に母方の祖父が破産して投獄され、一家はパリに引っ越した。1910年に妹エレーヌが生まれた。一家はリムーザンの地所でヴァカンスを過ごすことが多く、彼女はこの地の自然を生涯愛した。5歳でカトリック系の私塾に入り、1917年には、演劇に熱を入れて新事業に失敗した父の経済状態が悪化し、1919年には狭いアパートに移った。父は、お前には持参金がないから結婚せず、仕事に就かなければならないと繰り返し、シモーヌは見捨てられたと感じた。14歳のころは熱心なカトリック教徒だったが、告解の際の神父の世俗的な発言に憤り、信仰を失うきっかけとなった。

親友ザザとの出会いは10歳のときで、ザザは両親に結婚を反対され、1929年にウイルス性脳炎で亡くなった。この出来事は心に深い傷を残し、自伝小説『娘時代』を書く契機となった。1928年にソルボンヌ大学に入学し、サルトルらと出会った。1929年、21歳で哲学のアグレガシオン(一級教員資格)に合格し、これは史上最年少で、女性としては9人目の合格者だった。前年に落第したサルトルが首席、彼女が次席だった。サルトルは彼女に、婚姻も子どもも持たず、嘘も隠し事もせず、互いの性的自由を認めつつ終生の伴侶となることを提案した。制度としての婚姻や母性を拒み、自立と自由を求めていた彼女は、この申し出を受け入れた。二人の関係は、サルトルが「私たちのあいだの愛は必然的なもの。でも偶然の愛を知ってもいい」と言ったことで表され、新しい男女関係のあり方として若い世代を魅了した。

その後は各地の高等学校で教えた。1932年にルーアンの高校で、教え子のオルガ・コザキエヴィッツと出会い、1935年にサルトルが彼女に好意を寄せた。1937年まで続いたこの三角関係は、自由な関係や嫉妬について考えさせ、処女作『招かれた女』(1943年)を書く契機となった。第二次世界大戦が始まると、1940年6月にサルトルが捕虜になり、ボーヴォワールは占領下のパリに戻って教壇に立った。1941年3月に病気のため捕虜収容所から戻ったサルトルと再会した。同年12月、教え子の母が、未成年者をそそのかして不品行を行わせたとして、ボーヴォワールを告訴した。後年には、元教え子から性的搾取の告発を受けたとも記される。アンガージュマンの知識人として政治や社会の問題に積極的に関わったのは戦後のことである。

1949年に、20世紀の女性解放思想の草分けとされる『第二の性』を発表した。1954年には、自伝小説『レ・マンダラン』でゴンクール賞を受賞し、1975年にエルサレム賞、1978年にオーストリア国家賞を受けた。1970年代には、人工妊娠中絶の合法化を求める運動をはじめとする女性解放運動に加わり、『レ・タン・モデルヌ』などを通じて運動を牽引した。生き方、哲学、実存主義やフェミニズム、社会主義の立場、政治・社会活動、執筆活動が分かちがたく結びついていた。1986年4月14日に世を去った。2008年には、女性の自由のためのシモーヌ・ド・ボーヴォワール賞が設立された。

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