伝記
ロバート・サンダーソン・マリケンは、1896年6月7日、マサチューセッツ州ニューベリーポートで生まれたアメリカの化学者である。父サミュエル・パーソンズ・マリケンは、マサチューセッツ工科大学の有機化学の教授だった。子供のころから、植物の名前や分類を覚え、優れてはいるが偏った記憶力を持っていた。たとえば、ドイツ語は大学で科学ドイツ語の課程を免除されるほど身につけたが、高校のドイツ語教師の名前は覚えていなかった。幼いうちに、物理化学者のアーサー・エイモス・ノイズとも知り合った。父が著した全4巻の有機化合物の同定の教科書の編集を手伝ったことから、有機化学の命名法に詳しくなった。
ニューベリーポートの高校で理科の課程を学び、1913年に卒業して、かつて父が獲得した奨学金を得て、マサチューセッツ工科大学に進んだ。父と同じく化学を専攻し、学部生のうちに、有機塩化物の合成についての研究を発表した。将来が決まらなかったため、化学工学の授業も取り、夏にはマサチューセッツ州とメーン州の化学工場を見学して回った。1917年に化学の学士号を取った。ちょうどアメリカが第一次世界大戦に参戦した時期で、ワシントンの大学で、ジェームズ・コナントのもとで毒ガスの研究を行った。9か月後に徴兵されたが、軍でも同じ仕事に就いた。実験の技術が未熟でやけどを負い、数か月勤務できなかった。のちには重いインフルエンザにかかり、終戦のときもまだ入院していた。
戦後は、ゴムに亜鉛酸化物やカーボンブラックを添加する効果を調べる仕事に就いたが、まもなく、これは追求したい化学ではないと判断した。1919年にシカゴ大学の博士課程に進んだ。水銀の同位体の蒸発による分離の研究で、1921年に博士号を得た。物理学者ロバート・ミリカンの授業を取り、古い量子論に触れた。のちにハーバード大学へ行き、分光の技術と量子論を学んだ。1925年と1927年にはヨーロッパに留学し、シュレーディンガー、ディラック、ハイゼンベルク、ド・ブロイ、ボルンら、のちにノーベル賞を受ける研究者たちと研究した。特にボルンの助手だったフリードリヒ・フントの影響を受け、1927年にフントと共に分子軌道法を発展させた。電子が分子全体に広がる状態に割り当てられるというこの理論は、フント-マリケン理論とも呼ばれる。
1926年から1928年にニューヨーク大学の物理学科で教え、物理学者としても認められた。物理と化学の境界領域を研究したため、両方の分野から自分の仲間とされた。1930年にグッゲンハイム・フェローとしてライプツィヒ大学に赴き、ハイゼンベルクやテラーと研究した。1931年から1985年までシカゴ大学の教授を務め、物理学科と化学科の両方に籍を置いた。1934年に電気陰性度のマリケンの定義を提案した。1953年には国際理論物理学会に出席するため来日した。1963年にピーター・デバイ賞を、1965年にウィラード・ギブズ賞を受け、1967年には王立協会の外国人会員に選ばれた。分子軌道法による化学結合と分子の電子構造の研究により、1966年にノーベル化学賞を受賞し、1983年にはプリーストリー賞を受けた。1986年10月31日に没した。
同じ年に亡くなった人物
- ラーシュ=エリク・ラーション (1986年没)
- メアリー・ウェルシュ・ヘミングウェイ (1986年没)
- セルジュ・リファール (1986年没)
- レオ・ジェームス・レインウォーター (1986年没)
- フェルディナンド・ダウチーク (1986年没)
同じ地域に関係する人物
- ジェイムズ・ケンパー (1895年没)
- ヒュー・ウィルソン (映画監督) (2018年没)
- ナジ・フェレンツ (1979年没)
- アムハ・セラシエ1世 (1997年没)
- ジミー・ディーン (2010年没)