伝記
ヴィンセント・ミネリは、1903年2月28日にシカゴで、レスター・アンソニー・ミネリとして生まれた、アメリカ合衆国の舞台監督、映画監督である。父ヴィンセント・チャールズはシチリア系で、母ミーナ・メアリーはフランス系カナダ人の血を引く。父方の祖父ヴィンツェンツォは、シチリア出身の音楽教授で、1848年のシチリア革命の蜂起に参加したが、臨時政府が崩壊すると島を去らざるを得なくなった。パレルモの地下墓所に18か月隠れたのち、ニューヨーク行きの果物船で密航したと伝えられ、のちにオハイオ州の大学の音楽学科長となった。父は兄弟のフランクとミネリ兄弟テント劇場を創立し、中西部の小さな町を巡業した。父が音楽監督を務め、劇団の公演で主演したミーナと1894年11月に結婚した。
レスターは、幼いころを両親と巡業の旅の中で過ごした。3歳のとき、舞台で「イースト・リン」の幼い息子の役を演じ、デビューした。テント劇場が火災、洪水、映画の台頭で行き詰まると、一家は父の故郷であるオハイオ州デラウェアに落ち着き、レスターは高校の3年間を同地の聖メアリー校で、最後の1年を別の高校で過ごした。学校の劇に出演し、デラウェアのオペラ・ハウスでも主演した。高校卒業後、シカゴに出て、母方の祖母や叔母と暮らし、水彩画の作品集を持ってマーシャル・フィールド百貨店を訪ねた。ここで陳列の責任者に採用され、見習いのウィンドー装飾係として働いた。やがて劇場の衣装デザイナーとなり、1932年にニューヨークへ移ってパラマウント系の劇場で働いた。のちにラジオシティ・ミュージックホールの衣装部長、さらに美術監督となり、ブロードウェイのミュージカルを演出した。1937年には短期間パラマウント映画で働いたが、ブロードウェイに戻り、ジェローム・カーンとオスカー・ハマースタイン2世の最後の共作も演出した。
1940年、アーサー・フリードに招かれてハリウッドのメトロ・ゴールドウィン・メイヤーに入り、1943年に『キャビン・イン・ザ・スカイ』で映画監督としてデビューした。翌1944年にジュディ・ガーランド主演の『若草の頃』を撮り、1945年にガーランドと結婚して、1946年に娘のライザが生まれた。ガーランドにとっては二度目の結婚であった。『ジーグフェルド・フォリーズ』『踊る海賊』などでもガーランドを演出したが、1951年に離婚した。1950年代には、『花嫁の父』『巴里のアメリカ人』『悪人と美女』『炎の人ゴッホ』など、多くの喜劇、ドラマ、ミュージカルを撮った。『巴里のアメリカ人』は1951年のアカデミー賞作品賞を受賞した。1958年にはレスリー・キャロン主演のミュージカル映画『恋の手ほどき』で、アカデミー賞の作品賞と監督賞を受けた。1960年代の初めに、企画の失敗が重なり、会社との関係が悪化したため、自分の製作会社を作り、1966年に同社を去った。彼の作品のうち6本は、アメリカの国立フィルム登録簿に、保存の対象として選ばれている。最後の映画は、1970年の『晴れた日に永遠が見える』と、娘ライザが主演した1976年の作品である。1986年7月25日に没した。83歳であった。
同じ年に亡くなった人物
- V・C・アンドリュース (1986年没)
- ガストン・ドフェール (1986年没)
- カルル・ブルックナー (1986年没)
- エリザベート・ベルクナー (1986年没)
- ジェームズ・キャグニー (1986年没)