HISTORICAL PERSON · 1986年没

レイ・ミランド

ウェールズ出身の俳優。カンヌ国際映画祭の男優賞とアカデミー主演男優賞の両方を受賞した初の俳優で、ウェールズ出身者として初のオスカー受賞者でもある。

生涯
1986年没
死亡地
アメリカ合衆国(カリフォルニア州 / トーランス)
出生地
イギリス連邦(ニース)
出典
世界地図
アメリカ合衆国(カリフォルニア州)

伝記

レイ・ミランドは、1907年1月3日にウェールズのニースで、鉄工所の監督アルフレッド・ジョーンズと、エリザベス・アニー(旧姓トラスコット)の子として生まれた俳優である。本名はジョーンズといい、主にハリウッドで活躍した。両親が別居したのち、ニースとレイダーの小学校に通い、短期間船に乗って海で過ごしたあと、カーディフのキングズ・カレッジ校に1年通った。乗馬の名手で、おじの馬の繁殖農場でも働いた。18歳のとき、カーディフの大学の入学試験に合格したが、進学はしなかった。

俳優になる前の1925年に、英国陸軍の近衛騎兵連隊の王室騎馬近衛隊に入った。射撃の名手で、中隊の射撃チームの一員として、イングランドのビズリー大会など多くの権威ある大会に勝ち、ピストルとライフルの両方で陸軍選手権を制した。ロンドン駐在中にダンサーと知り合い、彼女を通じてアメリカの女優エステル・ブロディを紹介され、ブロディに軍人としての将来に疑問を呈されて、1928年に除隊の手続きをして、俳優を目指した。叔母の遺産で生活したとも、父が援助をやめたためだったともいわれる。1929年に、エキストラとして映画の端役に初めて出たが、画面には出ない仕事が続いた。射撃の腕を買われて、別の映画のエキストラになり、その現場から隣のスタジオの作品のテストを受けるよう言われ、監督に好印象を与えて、1929年の『フライング・スコッツマン』で俳優としての初めての役を得た。このとき芸名を勧められ、故郷ニースのミル・ランズという地区からミランドの名を選んだと、自伝に書いている。芸名の由来には諸説がある。

1930年にハリウッドに進出し、1931年にメトロ・ゴールドウィン・メイヤーと契約した。1932年までに8本の映画に出たが芽が出ず、解雇されて、一度英国に戻った。もう一度ハリウッドで勝負しようと再び渡米し、1934年の『ボレロ』への出演で、ついに認められた。のちにパラマウント社に拾われ、ほぼ20年間、同社に所属した。1936年の『ジャングル・プリンセス』で新人のドロシー・ラムーアの相手役を務め、成功してふたりともスターになった。1930年代から1940年代半ばまでは、明るいロマンチックな役が多かった。二枚目ながら大根役者と揶揄されることもあったが、1945年、ビリー・ワイルダーの『失われた週末』で、アルコール依存に苦しむ作家を演じ、カンヌ国際映画祭の最優秀主演男優賞、ゴールデングローブ賞、アカデミー主演男優賞を受賞した。ウェールズ出身者として初めての受賞であった。1954年には、アルフレッド・ヒッチコック監督の『ダイヤルMを廻せ!』に主演した。1955年の『白昼の対決』を機に、監督業にも乗り出した。1960年代以降は、B級映画とテレビ出演が主となったが、1970年の『ある愛の詩』では、主役ライアン・オニールの父を演じた。1986年3月10日、カリフォルニア州トーランスで、肺癌のため79歳で死去した。私生活では妻を愛し、養女を育て上げ、華美なハリウッドを嫌ったという。1974年に自伝『バビロンで目を見開いて』を出版している。

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