HISTORICAL PERSON · 1554年没

ジェーン・グレイ

16世紀中頃のイングランドの女王(在位1553年7月10〜19日)で、九日間の女王と呼ばれる。ダドリーの画策で即位したが、メアリー1世に廃位され、翌1554年に大逆罪で斬首された。

生涯
1554年没
死亡地
イギリス連邦(タワーハムレッツ区 / ロンドン塔)
出生地
イギリス連邦(Bradgate House)
出典
世界地図
イギリス連邦(タワーハムレッツ区)

伝記

ジェーン・グレイは、16世紀中頃のイングランドで、1553年7月10日から19日までのわずか9日間だけ女王の座にあった人物である。このため「九日間の女王」の異名を持つ。生年は1537年10月とする伝統的な見方が知られてきたが、近年の研究では1536年末か1537年春で、場所もロンドンかもしれないとされる。父は初代サフォーク公爵ヘンリー・グレイ、母はその夫人フランセス・ブランドンで、母方の祖母がヘンリー8世の妹メアリー・テューダーであったことが、のちに王位継承権の根拠となった。

ジェーンは人文主義の教育を受け、司教ジョン・エイルマーからラテン語、ギリシア語、ヘブライ語を、修道士ミケランジェロ・フロリオからイタリア語を学んだ。父の影響で熱心なプロテスタントとなり、スイスの神学者ハインリヒ・ブリンガーと文通したという。狩りの遊びより書物を好み、当時としても厳しい教育を、自身は過酷なものと感じていたとされる。1547年2月初めには、エドワード6世の叔父にあたるトーマス・シーモアの家に預けられた。シーモアはまもなくヘンリー8世の未亡人キャサリン・パーと結婚し、ジェーンは夫妻とともにグロスターシャーのスードリー城で暮らしたが、1548年9月にキャサリンが出産後に亡くなった。シーモアは同年末に逮捕され、処刑されている。

1553年5月25日、ジェーンは、当時国王に次ぐ権力者だったノーサンバランド公ジョン・ダドリーの息子ギルフォード・ダドリーと結婚した。ノーサンバランド公は、政敵サマセット公エドワード・シーモアを反逆の罪で処刑した後で、ジェーンの血統に目をつけたのである。ヘンリー8世の長女メアリーがカトリックである一方、ジェーンは熱心なプロテスタントであったため、同じくプロテスタントの病床のエドワード6世は、1553年6月に遺言状を作って、ジェーンとその男子の子孫を後継者に指名し、異母姉のメアリーとエリザベスを継承順位から外した。ノーサンバランド公の最終目的は、ジェーンとギルフォードの息子を王位に就けることにあったという。

エドワード6世の死後、ノーサンバランド公は7月10日にジェーンの即位を宣言したが、陰謀を察したメアリーは逃れ、身柄を押さえられなかった。メアリーへの支持は急速に広がり、ジェーンは次第に支持者に見捨てられた。枢密院も突然立場を変え、7月19日にメアリーを女王と宣言したため、ジェーンは廃位され、夫ギルフォードらとともに逮捕された。ノーサンバランド公は反逆罪で告発され、1か月足らずで処刑された。ジェーンはロンドン塔に幽閉され、11月に大逆罪で告発されたが、当初は処刑を免れた。

しかしメアリーがスペインのフェリペ王子との結婚を進めたことへの反対から、ワイアットの乱が起こり、ジェーンの父ヘンリーがこれに加わったため、ジェーンは王位への脅威と見られるようになった。メアリーは当初処刑をためらったとされるが、ジェーンを処刑しなければ婚約を解消するというスペイン側の申し入れを受けて決断したとも伝えられる。カトリックへの改宗を条件に命を助けると持ちかけられても、ジェーンは毅然として拒み、死を選んだとも言われる。1554年2月12日、ジェーンは夫とともに斬首され、遺体は夫とともにセント・ピーター・アド・ヴィンキュラ王室礼拝堂に葬られた。満16歳の生涯であった。イギリス王室はジェーンを、テューダー朝第4代として歴代君主の一人に数えている。

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