伝記
フズーリーは、オスマン帝国の詩人である。本名はムハンマド・ビン・スレイマンといい、1480年ごろ、あるいは1483年ごろに生まれ、1556年に没した。トルコ古典詩の分野で最も名声と影響力のあった詩人とされ、アゼルバイジャン・トルコ語、ペルシア語、アラビア語の三つの言語で詩を書いた。オスマン語とチャガタイ語の文学にも通じ、数学と天文学にも詳しかったという。
生地は、現在のイラクにあたる地域で、当時はトルコ系の白羊朝の支配下にあった。おそらくカルバラー、あるいはトルクメンの地であろうとされる。一族はオグズ系のバヤト部族に属し、祖先は遊牧民であったが、家はすでに長く都市に定住していたようである。父はヒッラの町のムフティー(法学者)で、フズーリーは父に、続いてラフメトゥッラーという師に学び、生まれつきのアゼルバイジャン語に加えて、ペルシア語とアラビア語を身につけた。シーア派の信者で、洗練された教育を受けたと伝えられる。
詩の才は早くから現れ、20歳のころに、長編詩『ハシシとワイン』を作った。この作品では、オスマン帝国のスルタン、バヤジト2世をハシシに、サファヴィー朝のシャー、イスマーイール1世をワインにたとえ、ワインのほうに軍配を上げている。スペイン語の記事は、この詩がイスマーイールのバグダード占領の1508年に捧げられたと述べる。筆名のフズーリーは、ペルシア語詩集の序文によれば、初めのころは数日ごとに筆名を変えていたが、同じ名の詩人が現れるため、最後に他人が選びそうにない、本来は「不遜な」「余計な」を意味するアラビア語を選んだのだという。ただし詩人自身は、この語に、学問を意味する語の複数形と読める別の意味も込めたと説明している。
1534年、スレイマン1世がサファヴィー朝からバグダードを奪うと、フズーリーは宮廷詩人となる機会を得て、スルタンとその側近をたたえる頌詩を作り、俸給を認められた。しかしオスマン帝国の官僚制の複雑さのために、その俸給は実際には支払われなかった。代表作の一つ『不満』では、この官僚制と腐敗を批判し、挨拶をしたのに賄賂でないからと受け取ってもらえなかったという趣旨の詩句を残している。詩は栄えたものの、暮らしは安定せず、生涯の大半を、バグダードの南のナジャフにあるアリーの廟に仕えて過ごした。1556年、流行した疫病のさなかに、カルバラーで世を去った。死因は疫病そのものか、コレラのいずれかとされる。
フズーリーは何よりも愛の詩人として知られ、自分でもそう述べている。ある詩では、賞賛の詩も非難の詩もフズーリーに求めてはならない、自分は恋する者であり、語るのは恋のことだけだ、と詠んでいる。その愛は、西洋のロマンチックな愛よりも、神の本質の投影としてのスーフィー的な愛に近いが、彼自身は特定のスーフィー教団には属さなかったようだ。彼の詩は世界のすべては愛であり、学問は噂話にすぎないという趣旨の句にも表れている。主な作品には、アゼルバイジャン語の『詩集』『ハシシとワイン』『喜びの園』『ライラとマジュヌーンの物語』『謎かけに関する論文』、ペルシア語の『心の友』『七つの杯』『快楽主義者と禁欲主義者』『健康と病気』、アラビア語の『信仰の誕生』がある。
同じ年に亡くなった人物
- Patriarch Dionysius II of Constantinople (1556年没)
- フマーユーン (1556年没)
- Giovanni della Casa (1556年)
- 斎藤道三 (1556年没)
- シュームビケ (1556年(推定))
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