HISTORICAL PERSON · 1557年没

ジャック・カルティエ

フランスの探検家。北米へ3度航海し、セントローレンス川岸に欧州人として初めて到達した。周辺を「カナダ」と名付け、フランスのカナダ領有の基礎を築いた。

生涯
1557年没
死亡地
フランス共和国(イル=エ=ヴィレーヌ県 / サン・マロ)
出生地
フランス共和国(サン・マロ)
出典
世界地図
フランス共和国(イル=エ=ヴィレーヌ県)

伝記

ジャック・カルティエは、1491年、ブルターニュ公国の北西にある港町サン・マロで生まれた。腕のいい航海者で、1520年にはこの地の指導層の一族の娘と結婚して社会的地位を高めた。洗礼の記録に名親や証人として頻繁に名が登場することからも、サン・マロでの令名がうかがえる。各地への航海を重ね、その中にはブラジルや、1497年にジョン・カボットが発見した後、有数の好漁場としてフランスの漁民が群がったニューファンドランドも含まれていた。フランス国王フランソワ1世は北西航路の探索に力を入れており、すでに1524年にはジョバンニ・ダ・ヴェラッツァーノを北米に派遣していたが、目立った発見がなかったため、その北側の探索をカルティエに命じた。

第一次航海は1534年4月、2隻の船でサン・マロを出航した。ニューファンドランド北東部からベルアイル海峡を抜け、マドレーヌ諸島を経てセントローレンス湾を横断し、プリンス・エドワード島を発見した。7月にはガスペ半島の東端に十字架を建て、「ヌーベル・フランス」と名付けてフランス領有を宣言した。この地方のイロコイ族の首長ドンナコナの二人の息子ドマガヤとタイニョアニを捕らえてフランスに連行し、9月に帰国した。

第二次航海は1535年5月、3隻の船と110人の乗組員で行われ、二人の息子も同行した。9月にはセントローレンス湾の最奥部にあるイロコイ族の村スタダコナ(現在のケベック)に到達してドンナコナと会い、その周辺の土地や川を「カナダ」と呼んだ。彼らとの関係は良好で、ドンナコナの家ではタバコを振る舞われた。北にあるという黄金の地サグネ王国の話もここで知った。カルティエはセントローレンス川こそ北西航路だと信じてさかのぼり、要塞村落オシュラガ(現在のモントリオール)に着き、そこの山をモン・ロワイヤルと名付けた。その上流の急流は中国への道を阻むものと考えてラシーヌ瀬と名付けた。フランスへ戻るには寒くなりすぎていたためスタダコナで越冬したが、船団は氷に閉じ込められ、壊血病の流行で少なくない死者が出た。1536年7月、次回の航海で連れ帰る約束のもと、首長の息子二人を含む10人の先住民を連れてサン・マロに帰った。

第三次航海は、黄金郷の話に刺激されたフランソワ1世により、北西航路ではなく黄金郷の探索と植民地建設を目的として、1541年5月23日に出帆した。1,500人の開拓移民に先行する形だった。スタダコナに着くと、ドンナコナは3年前の1539年に死去していた。カルティエはサグネを探したがオシュラガより北へは進めず、後続の移民団も現れないまま、厳しい冬を越して翌年フランスに戻った。以後カナダを訪れることはなく、サン・マロ近郊の自分の地所で残りの人生の多くを過ごし、おそらくチフスであろう伝染病で1557年9月1日、65歳で死去した。カルティエの探検後、フランス人がしばらく入植することはなかったが、この地域で毛皮が多く産出されることが知られ、フランス人の商人が訪れるようになった。1608年には国王アンリ4世の支援を受けたピエール・ドゥグアとサミュエル・ド・シャンプランが、セントローレンス川の河口にこの地域初の恒久植民地ケベックシティを建設した。ケベック人にとってカルティエは植民地の開祖の一人であり、モントリオールのジャック・カルティエ橋など、いくつかの建造物にその名が付けられている。

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