伝記
ロクセラーナは、オスマン帝国のスレイマン1世の寵愛を受けた女性で、1502年から1504年頃に生まれ、1558年4月15日に没した。オスマン帝国ではヒュッレム・ハセキ・スルタンの名で知られ、「ロクセラーナ」はヨーロッパでの呼び名である。これは本名ではなく、ルーシ人の女を意味するあだ名だった。スラヴ系でウクライナ人、ロシア人、あるいはポーランド人だったといわれ、ポーランドの伝承や16世紀後半から17世紀前半の文献では、ルテニア地方の貧しい正教会司祭の娘で、本名はアレクサンドラ・アナスタシア・リソフスカだったとされる。
1520年代にクリミア・タタール人に捕えられて奴隷としてイスタンブールへ売られ、大宰相パルガル・イブラヒム・パシャに買われたのち、スレイマン1世に献上されたといわれる。彼女はまもなくスレイマンの注意を惹き、ライバルたちに嫉妬されながらも子を産んで第2夫人となった。当時の敵は、ハフサ・ハトゥンを後ろ盾とする第1夫人マヒデヴランと、大宰相イブラヒム・パシャらだった。1534年にハフサ・ハトゥンが死去するとマヒデヴランはスレイマンの不興を買って宮殿を追われ、1536年にイブラヒム・パシャは処刑された。追放の経緯について、ヴェネツィア大使は、彼女が自ら顔に引っ掻き傷を作り、それをマヒデヴランの仕業と思い込ませたと報告している。イブラヒムの処刑への関与を示す証拠はないが、人々は彼女を疑った。
彼女は数々の慣習を破った。それまでオスマン帝国では、男子を産んだ女性はスルタンから遠ざけられ、14世紀後半のムラト1世以来、妃と法的に結婚したスルタンもいなかった。しかしスレイマンは彼女を側に置き続け、5人の男子を儲け、奴隷身分から解放する手続きをとって正式な妻に迎えた。こうして事実上の一夫一婦の関係が築かれ、1541年には女奴隷や宦官とともにトプカプ宮殿内のスレイマンの居住区画に住むことも許された。ポーランド王ジグムント2世アウグストへ宛てた手紙も現存し、彼女の存命中、オスマン帝国とポーランドの同盟は保たれた。人柄について、ヴェネツィア大使ブラガディーノは「美人ではないが愛想がよく、陽気な性格である」と報告し、同じく大使のナヴァゲロは「ずる賢い女性である」と評した。
後継争いでは、長男メフメトが1543年に天然痘で早世し、マヒデヴランの子ムスタファが有力となったが、1553年に遠征軍の陣中で突然処刑された。動機は不明だが、世論は彼女と、娘婿で大宰相のリュステム・パシャが「徳の高いスルタンの目をくもらせた」と考えた。16世紀の女流詩人ニサーイーは、スレイマンと「ロシアの魔女」、すなわち彼女を非難する詩を作っている。スレイマンは政権内の不満を抑えるため1553年にリュステムを罷免したが、彼女は助命に奔走し、リュステムは1555年に大宰相へ返り咲いた。一方で彼女は、慈善事業にも力を注いだ。イスタンブールにモスクと2つの学校、噴水、女性用の病院を建て、1556年にはミマール・スィナン設計の公共浴場を建て、その収入はアヤ・ソフィアへの財政支援に充てられ、1552年にはエルサレムに貧窮者のための給食施設を設けた。1558年、セリムとバヤズィトのどちらが後継者となるかを見届けることなく、50代半ばで没し、ミマール・スィナンが建てたスレイマニエ・モスクの境内の霊廟に葬られた。死後、後継争いは激化し、敗れたバヤズィトは1561年に処刑され、セリムがセリム2世として即位した。
同じ年に亡くなった人物
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- マリア・フォン・エスターライヒ (1558年没)
- レジナルド・ポール (1558年没)
- ジャン・フェルネル (1558年)
- Mellin de Saint-Gelais (1558年)
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