HISTORICAL PERSON · 240年没

セクストゥス・ユリウス・アフリカヌス

2世紀後半から3世紀初めのキリスト教徒の歴史家。天地創造から221年までの世界史を著し、創造からイエスまでを5500年と算定してエウセビオスらに影響を与えた。エマオの復興を皇帝に願い出て成功した。

生涯
240年没
死亡地
パレスチナ国(エルサレム地区 / エルサレム)
出生地
イスラエル(アエリア・カピトリナ)
出典
世界地図
パレスチナ国(エルサレム地区)

伝記

セクストゥス・ユリウス・アフリカヌスは、2世紀後半から3世紀前半にかけて活動したキリスト教徒の旅行家・歴史家である。後の歴史家エウセビオスや、教会史を書いた教父たち、さらにギリシアの年代記作者の流派に影響を与えた。生涯について分かることは少なく、年代もすべて不確かで、240年に没したとされる。

出自については諸説がある。『スーダ』は彼を「リビアの哲学者」と記し、ゲルツァーはローマ人とエチオピア人の血を引くと考えている。本人はエルサレムの出身と称し、これを生地とみる研究者もいる。居住したのは近くのエマオであった。年代記から、古代ユダヤの地誌に通じていたことがうかがえる。伝承では、ゴルディアヌス3世(238年から244年)の時代の人物とも、セウェルス・アレクサンデル(222年から235年)の時代の人物ともされる。エデッサ王アブガル8世(176年から213年)と面識があったらしい。

若いころは異教徒で、一時は軍人だったとされる。195年にセプティミウス・セウェルスのもとでオスロエネ人との戦いに従軍した可能性がある。のちセウェルス・アレクサンデル帝のもとへ使節として赴き、廃墟となっていたエマオの復興を願い出た。この使命は成功し、エマオはその後ニコポリスと呼ばれた。ギリシアとローマを旅し、おそらく215年頃、教理学校の名声に惹かれて学びにアレクサンドリアへ行った。ギリシア語、ラテン語、ヘブライ語を知り、著作はすべてキリスト教徒として書いた。一般信徒だったか聖職者だったかは論争があり、オリゲネスを「親愛なる兄弟」と呼んだことから司祭だったと論じる者もいたが、ゲルツァーはこの論拠は決め手にならないと指摘している。

主著『年代記』は全5巻の世界史で、天地創造から221年までを扱う。創造からイエスまでを5,500年とし、受肉を紀元前1年3月25日、すなわち世界暦5501年の春分に置いた。イエスの誕生日は特定していない。この数え方は、ギリシア語圏の東地中海でいくつもの創造紀元が使われるきっかけとなり、いずれも創造を紀元前5500年の前後10年以内に置いた。護教の目的をもつこの書は現存しないが、エウセビオスの『年代記』に多くの抜粋が残り、初期の司教名簿の作成に大きく利用された。ゲオルギオス・シュンケロスらにも断片がある。書簡も残る。アリスティデスに宛てた手紙では、マタイとルカが記すキリストの系図の食い違いを、子なく死んだ兄弟の妻をめとらせるユダヤの律法によって調和させた。オリゲネスに宛てた簡潔で的確な手紙は、ダニエル書のスサンナの物語の権威を疑うもので、オリゲネスの長い返答とともに現存する。

農業、博物誌、軍事学などを扱う百科的な『ケストイ』(「刺繍」の意)も彼の作とされるが、世俗的で信じやすい内容から、帰属には異論がある。ネアンダーは、宗教に専念する前に書いたのではないかとした。断片はオクシリンコス・パピルスからも見つかっている。この書は物質的な諸科学と数学や技術の分野の百科事典として意図されたらしいが、珍奇で取るに足らない事柄や奇跡的な事柄を多く含み、刊行された部分には農業、典礼学、戦術、獣医を含む医学の項目がある。『年代記』では、モーセからオリンピア紀の始まりまでを1020年と数え、ギリシア人の計算と一致するとして、イリオンのポレモンの『ギリシア史』の断片を伝えている。

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