HISTORICAL PERSON · 1563年没

エティエンヌ・ド・ラ・ボエシ

フランスの裁判官・人文主義者。23歳頃に『自発的隷従論』を書き、圧制は被支配者の自発的な隷従で続くと論じた。親友にモンテーニュがいる。

生涯
1563年没
死亡地
フランス共和国(ジロンド県 / ル・タイヤン=メドック)
出生地
フランス共和国(サルラ=ラ=カネダ)
出典
世界地図
フランス共和国(ジロンド県)

伝記

エティエンヌ・ド・ラ・ボエシは、フランスの裁判官であり、人文主義者である。1530年11月1日に、サルラ=ラ=カネダで生まれた。両親とも法官貴族の家系だったが、早くに孤児となり、叔父に養育され、父と同じ法官の道を歩んだ。オルレアン大学に進んで、法学や人文学を学び、大学の卒業論文として『自発的隷従論』を書いたとされる。書かれた時期は諸説あり、卒業時の23歳の頃とも、1548年で18歳のときともいわれ、親友のモンテーニュは16歳か18歳の頃の作と述べている。

ギリシア語やラテン語の古典を訳す仕事も、人文主義者の間ではありふれたことだった。ラ・ボエシも、クセノフォンやプルタルコスの作品をギリシア語からフランス語に訳している。ただし、最も有名なのは、独自の著作である『自発的隷従論』で、塩税をめぐる反乱に王の軍隊と徴税官が勝った後に書かれたともいわれる。この書は自由への賛歌ともいえ、なぜ少数の者が多数を支配できるのか、なぜ抑圧に憤る人々がそれに耐えるのかを問う。「圧制は支配される側の自発的な隷従によって永続する」という、支配と被支配の構造の本質を見抜いたとされる。人々が自由を取り戻すには反抗するだけでよく、暴力に頼らなくても、人々が自らの隷従に同意することを拒めば、暴政は自壊すると彼は論じた。

論文は、人々が一人の統治に従う理由を、まず習慣、次に宗教や、指導者をめぐる迷信に求める。支配の秘密は、支配される側を支配の構造そのものに取り込むことにあり、暴君は数人を、その数人は数百人を、その数百人は数千人を支配するという、権力の階層ができる。暴君は側近にわずかな恩恵を与え、側近はそれを感謝して服従する。ラ・ボエシは、暴君の周りにいる者ほど自由がないとし、彼らは暴君の望みを先回りして、自ら隷従を選ぶからだと考えた。書には、人民の選挙で、力で、血筋で権力を得る三種類の暴君が描かれている。これに対し、ピラミッドの底にいる農民や職人は、命じられたことを終えれば残りの時間を自由に使えるため、ある意味でより自由で幸福だという。ラ・ボエシは、人間らしさが少しでも残っている限り、人は力で強いられるか欺かれるときにしか服従しないと書き、驚くべきなのは、人々が自由を取り戻そうと戦わないことだと述べた。また、自然は神の使いとして人間をみな平等に、同じ型でつくり、互いを仲間や兄弟と認められるようにしたと、政治上の平等を説いた。この論文は筆写されて当時の知識人の間に広く読まれ、のちにフランス革命期の1789年や1792年にも新刊が出た。

1554年にボルドーの高等法院に評定官として着任し、同僚のミシェル・ド・モンテーニュと深い親交を結んだ。1561年1月のオルレアン寛容勅令には「混乱を招く」として、建言書「正月勅令に対する意見書」を書いた。詩人、翻訳家、著作家としてパリにも名を知られた。1563年8月18日、ペストとみられる病で、ジェルミニャン(タイヤン=メドック)で死んだ。臨終の床でモンテーニュに「死はそれほどに悪いものではないさ」と語り、自分の死を悲しむ人々を逆に慰めたという。死の数年前に、著作を遺言でモンテーニュに託し、モンテーニュは『エセー』の友情を論じた章で彼をたたえた。

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