伝記
フェルディナント1世は、1503年3月10日、カスティーリャ王国のアルカラ・デ・エナーレスで生まれた。父は神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世の長男フィリップ、母はカスティーリャ女王フアナで、次男にあたり、のちの皇帝カール5世の弟である。母方の祖父フェルナンド2世にちなんで名づけられた。スペインで育ち、母語もスペイン語であったため、スペインの人々は彼のスペイン王位継承を望んでいたが、フランドルで育った兄と入れ替わるような形でオーストリアへ向かい、生涯スペインに戻ることはなかった。離れて育った兄弟の初対面はうまくいき、兄とは生涯良好な関係を保った。
1515年、祖父マクシミリアン1世によって、ボヘミアとハンガリーの王ウラースロー2世の娘アンナとの結婚と、妹マリアとアンナの弟ラヨシュ2世との結婚が定められた。この時点でアンナの夫がカールかフェルディナントかは決まっておらず、のちに相手がフェルディナントに決まるとハンガリー側は猛反発した。それでも2人にとっては幸福な結婚となり、妃アンナとの間には15人の子が生まれた。1521年には、マクシミリアン1世の遺領分割でオーストリアを相続し、リンツでアンナと結婚した。
1526年、モハーチの戦いで義弟ラヨシュ2世が戦死してボヘミアとハンガリーの王位が空位になると、フェルディナントはこの2国の王位を継承し、のちのハプスブルク帝国の礎を築いた。ただしオスマン帝国を後ろ盾とするトランシルヴァニア領主サポヤイ・ヤーノシュがハンガリー王として対立し、ハンガリー全土を実効支配することはできなかった。1529年には第一次ウィーン包囲も受け、このときはルター派諸侯の力を借りている。1531年にはアーヘンでローマ王の戴冠を受け、兄の皇太弟として共同ローマ王となった。カトリックとプロテスタントの宥和に尽力し、1552年にパッサウ条約、1555年にアウクスブルクの和議を結んだ。1556年にカール5世が退位すると、帝位を継承した。
ボヘミアでは王権の強化がある程度成功し、1547年にシュマルカルデン戦争に乗じて起こった反乱を鎮圧して、ハプスブルク家によるボヘミア王位の世襲を認めさせた。1556年のイエズス会招聘や1561年のプラハ大司教の復活など、対抗宗教改革の導入にも力を注いだが、フス派を弾圧せず穏健な手段を選び、徐々にカトリック化する方針をとった。文化面では、若い日々を過ごしたスペイン宮廷の食文化をウィーンに伝えようとし、宮廷晩餐会の規則も整えた。ボヘミアでは王妃アンナのためにプラハ城の北に離宮を建てた。
1564年7月25日、61歳で亡くなった。遺領は3分割され、長男マクシミリアン2世が皇帝とボヘミア王・ハンガリー王を、次男フェルディナント2世がチロル伯領を、三男カール2世がシュタイアーマルクなどを継承した。兄との取り決めでは次の帝位は甥のフェリペが継ぎ、兄の家系と弟の家系が交互に継ぐはずであったが、これは実行されず、スペイン・ハプスブルク家もマクシミリアン2世の即位を容認した。以後はオーストリア・ハプスブルク家が帝位を世襲していくことになる。明朗快活で肉親への愛情が深かったとされ、モットーは「正義はなされよ、たとえ世界が滅びるとも」であった。
同じ年に亡くなった人物
- ラニ・ドゥルガヴァティ (1564年)
- ルイス・デ・ベラスコ・イ・ルイス・デ・アラルコン (1564年没)
- グイド・アスカニオ・スフォルツァ・ディ・サンタ・フィオーラ (1564年)
- ザビーナ・フォン・バイエルン (1564年没)
- ミケランジェロ・ブオナローティ (1564年没)
同じ地域に関係する人物
- チャールズ・ヴィダー (1959年没)
- アルブレヒト6世 (オーストリア大公) (1463年没)
- フランツ・ノプシャ (1933年没)
- アドルフ・ヨーゼフ・ランツ (1954年没)
- テオドール・コチュヒ (1866年没)