伝記
アーヴィング・バーリンは、1888年5月11日にロシア帝国で、ユダヤ人の家に生まれた、アメリカの作曲家、作詞家である。生まれたときの名はイスロエル・イジドル・ベイリンといった。家族はベラルーシのトロチンの村の出身だが、のちに本人は、父が巡回の詠唱者として家族を連れていた、シベリアのチュメニで生まれたのだろうと知った。父モーゼスは敬虔なユダヤ教徒で、母レナとの間の8人の子の一人だった。大人になってから、ロシアでの最初の5年間の記憶としては、道のそばの毛布の上に寝て、自分の家が焼け落ちるのを眺めていた、ただ一つの記憶しかないと語っている。ユダヤ人の村への迫害を避けるために、一家は祖国を去り、アントワープから船で旧大陸を離れて、1893年9月14日にニューヨークのエリス島に着いた。5歳であった。
ニューヨークでは、一家は地下の部屋に短期間住んだのち、3部屋の安アパートに移った。父は、同じような詠唱者の仕事が見つからず、ユダヤ教の戒律に従った肉屋で働いたが、数年後に亡くなった。わずかな学校教育しか受けず、8歳のころから新聞売りや靴磨きなど、さまざまな仕事をして家計を助けた。母は産婆をし、姉妹のうち3人は葉巻を巻く仕事をした。やがてマンハッタンのチャイナタウンのカフェで、ウェイター兼専属歌手になり、そこで歌うための曲を自作するようになった。1907年に最初の曲を出版し、版権料として33セントを受け取った。のちにヴォードヴィルの舞台にも自ら上がった。1911年に作詞作曲した「アレキサンダーズ・ラグタイム・バンド」のヒットで名声を確立し、本格的にショービジネスの世界に入って、多くのミュージカルの楽曲を担当した。
1912年に最初の結婚をしたが、新妻は新婚旅行先で病を得て急逝した。悲嘆の中で作曲した「あなたを失ったとき」は、「アレキサンダーズ・ラグタイム・バンド」に次ぐ初期のヒット曲となった。1915年にアメリカが第一次世界大戦に参戦すると、慰問のミュージカルのために数々の作品を手がけ、このころに、のちに「第二の国歌」と呼ばれる「ゴッド・ブレス・アメリカ」を作った。1927年には世界初のトーキー映画『ジャズ・シンガー』の音楽を手がけ、アル・ジョルスンが歌う「ブルー・スカイ」が大ヒットした。1935年に「トップ・ハット」が大ヒットし、1942年の映画『スイング・ホテル』では、劇中歌「ホワイト・クリスマス」で、アカデミー歌曲賞を受賞した。この曲は、クリスマス・ソングの極めつきとして、今日まで多くの歌手にカバーされている。
第二次世界大戦後、親友のジェローム・カーンが『アニーよ銃をとれ』の作曲の途中で急逝したため、ロジャースとハマースタインからの依頼で作曲を引き継いだ。当初は、ヒルビリー音楽の知識がないとして断ったが、初演は1,147回上演されて、最高のヒット作になった。「ショウほど素敵な商売はない」は、エセル・マーマンの代表曲になった。バーリンは楽譜の読み書きができず、名声を得てからも、着想した旋律をピアノで奏で、専属の採譜者に記録させた。1962年に作詞、作曲の活動から引退し、1968年にはグラミー賞の生涯功労賞を受賞した。1989年9月22日、101歳で死去した。膨大な数の曲を残し、ジョージ・ガーシュウィンは彼を「アメリカのシューベルト」と呼んだ。
同じ年に亡くなった人物
- セルゲイ・ソボレフ (1989年没)
- 宮崎康二 (1989年没)
- ジャン・デスポー (1989年没)
- ウィリー・スティール (1989年没)
- カル・リンポチェ (1989年没)
同じ地域に関係する人物
- ロレンツォ・ダ・ポンテ (1838年没)
- ロックウェル・ケント (1971年没)
- レイ・シャーキー (1993年没)
- Margit Slachta (1974年没)
- ロッテ・レーニャ (1981年没)