伝記
トーマス・ベルンハルトは、1931年2月9日、オランダのマーストリヒト近郊ヘールレンの産院に、非嫡出子として生まれたオーストリアの小説家、劇作家である。両親はともにオーストリア人で、母方の祖父は、アナーキズムを信奉する無名の作家ヨハンネス・フロイムビヒラーだった。1歳のとき、ウィーンに住むこの祖父のもとに預けられ、ウィーンやザルツブルクなどで祖父母とともに暮らした。敬愛した祖父の教育は、のちの世界観の下地となった。幼いころから音楽を好み、ギムナジウムの時代にもヴァイオリンや歌唱を学んだ。しかしナチス政権下の学校も、戦後に入れられたカトリック系のギムナジウムも、彼の気質に合わず、1947年に学校を中退して、食料品店の見習い店員として働きはじめた。
店主のポドロハは、かつて音楽家を志して挫折した人物で、ベルンハルトは、その薫陶を受けて、店に勤めるかたわら声楽の勉強に励み、まもなくザルツブルクの教会でソリストを務めるようになった。ところが、急性の肋膜炎にかかり、奇跡的に生還したものの、療養のため過ごしたサナトリウムで結核に感染して、長い闘病生活を送った。この経験が、彼を存在の限界としての死に向き合わせることになった。退院後は一時、新聞記者として働き、1955年にモーツァルテウムに入学して、音楽と演劇を専攻した。1957年に卒業し、卒業論文は、ブレヒトとアントナン・アルトーの比較研究だった。同年、詩集『地上で、そして地獄で』を出版して、作家としての活動を始めた。
1960年、ケルンテン州の小劇場で演劇に関わって以後、劇作の発表も始めた。1963年に長編小説『凍』を発表し、『アムラス』『昏乱』などを続けて刊行した。1967年にオーストリア国家賞、1970年にゲオルク・ビュヒナー賞を受賞して、戦後のドイツ語圏を代表する作家の一人と目されるようになった。1975年以降は、生い立ちから青年期までを描いた自伝五部作、『理由』『地下』『息』『寒さ』『ある子供』を発表した。1986年には、彼の文学の集大成となる長編『消去』を発表した。1965年からは、オーストリア北部のオールスドルフで暮らした。
作品には、孤独な登場人物が、卑近で具体的な状況に即して、自説を延々と語るという、典型的なスタイルがある。主人公の多くは学者で、「おろかな大衆」への長広舌によって、オーストリア人の価値観を徹底的にこき下ろす。非難の対象は、国家体制や、大衆受けする劇場、国民的作家などで、本国では「巣を汚すもの」とも呼ばれた。小説『樵る』(1984年)は、旧友に名誉毀損で訴えられ、数年間出版できなかった。戯曲『ヘルデンプラッツ』(1988年)は、保守的な団体から、オーストリア人を貶めたと非難を受けた。これらの劇は、劇場監督クラウス・パイマンによって上演された。一方、作品は国外で絶賛された。
1989年2月12日、オールスドルフで死去した。死は、火葬が済んだのちに公表された。遺言で、自作をオーストリア国内で新たに上演することと、未発表の作品を出版することを禁じ、これは彼の言う「文学的亡命」と呼ばれて物議を醸した。ただし遺族は、しばしばこれを許可している。彼が住んでいた家は、現在、記念館になっており、何百もの靴が展示されている。
同じ年に亡くなった人物
- スル・ミガン・アピティ (1989年没)
- 芥川也寸志 (1989年没)
- Fernando Goncalves Namora (1989年没)
- セルゲイ・ソボレフ (1989年没)
- メアリー・マッカーシー (1989年没)
同じ地域に関係する人物
- Janos Batsanyi (1845年没)
- マリア・アントニア・ディ・ボルボーネ=ドゥエ・シチリエ (1898年没)
- フェルディナント・カール・フォン・エスターライヒ=エステ (1781-1850) (1850年没)
- ルートヴィヒ7世 (バイエルン公) (1447年没)
- フリードリヒ・ヴィルヘルム・クリューガー (1945年没)