伝記
ルシル・デジレ・ボールは、1911年8月6日、ニューヨーク州のジェームズタウンに生まれたアメリカのコメディアンであり、女優、映画会社の重役である。出身地について、モンタナ州ビュートと語ることもあった。ニューヨーク生まれよりも、モンタナ生まれのほうがロマンティックだと語り、自分を「西部の子」に仕立てたとされる。父ヘンリーは、電話会社の保線工員で、転勤が多く、彼女が生まれて3年間で、アナコンダ、トレントンなどに引っ越した。1915年2月、母が弟フレッドを身ごもっているとき、父は腸チフスで亡くなった。その日のことは、鳥が家に入ってきたこと以外は、写真でしか覚えておらず、それ以来、鳥恐怖症になった。その後は、母、弟とともに、ニューヨーク州セレロンに住む祖父母に育てられた。祖父のフレッド・ハントは、演劇が好きで、家族をヴォードヴィルに連れて行き、彼女を学校演劇にも参加させた。
母は再婚したが、継父の両親の世話をさせられ、ピューリタンの両親は、鏡をほとんど取り除いて、身なりに気を遣うと厳しく罰した。12歳のとき、継父の組織の余興のために、オーディションに駆り出された。舞台に出ると、これこそが自分が賞賛される方法だと確信するようになった。1927年には、近所の少年が撃たれた件で裁判があり、家屋と家具を没収された。母は、家計が苦しいなかで、娘をニューヨークの演劇学校に入れた。同級生にはベティ・デイヴィスがいたが、そこで学んだのは、怖がらせる方法だけだったと、後に語っている。1928年にニューヨークに戻ってモデルをしたが、リウマチ熱などの病気で2年間休業した。1932年に再びニューヨークに戻り、煙草売りなどをして生活し、「ダイアン・ベルモント」の芸名で、ブロードウェイのコーラスの仕事を得たが、長くは続かなかった。
その後ゴールドウィン・ガールズに所属し、1933年に端役で映画に出たのち、ハリウッドに移った。RKOと契約し、三ばか大将の短編喜劇や、マルクス兄弟の『ルーム・サーヴィス』など、多数の映画に端役で出演した。フレッド・アステアとジンジャー・ロジャースの映画にも数多く出ている。ロジャースは、彼女の母方の遠い親戚である。『ステージ・ドア』では、ロジャースとともに、女優を目指す役を演じた。1940年代にはMGMと契約したが、スターにはなれず、B級映画で主演したことから、「B級映画の女王」と呼ばれた。ラジオにも出演し、そこで、以後50年にわたる仕事仲間となるゲイル・ゴードンと出会った。1940年に、ミュージカル映画の撮影中、キューバ生まれのバンドリーダー、デジ・アーナズと出会い、同年に駆け落ちした。
1951年、連続ドラマ『アイ・ラブ・ルーシー』の製作に携わった。夫役に当時実生活でも夫だったデジ・アーナズ、友人夫妻の役にヴィヴィアン・ヴァンスとウィリアム・フローレイが共演した。この番組は180エピソード放送され、1957年に終了し、その後も『ルーシー・デジ・コメディ・アワー』などで、1967年まで放送が続いた。1951年7月に長女ルーシー、1年半後に長男デジ・ジュニアを出産し、1960年5月に離婚した。1962年から『ルーシー・ショー』、1968年から『陽気なルーシー』に主演した。1962年には、『スパイ大作戦』や『スタートレック』などを製作するテレビ制作会社で、初の女性経営者になった。エミー賞に13回ノミネートされ、4回受賞した。ゲイリー・モートンと再婚し、27年以上の結婚生活を送った。1989年4月26日、77歳で大動脈解離により亡くなった。
同じ年に亡くなった人物
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- ドン・レヴィー (1989年没)
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