伝記
スレイマン1世は、1494年にアナトリア北東のトラブゾンで生まれ、1566年に没したオスマン帝国の第10代皇帝である。在位は1520年から1566年の46年に及び、13回もの対外遠征で数多くの軍事的成功を収め、帝国を最盛期に導いた。ヨーロッパでは壮麗帝、日本ではスレイマン大帝と呼ばれ、トルコでは法典を編纂して制度を整えたことから立法帝の名で知られる。名は旧約聖書のソロモン王のアラビア語形スライマーンに由来する。
父セリム1世はマムルーク朝を滅ぼしてシリアとエジプトを初めて征服した人物で、その不在の間、若いスレイマンは所領のマニサで軍事長官を務めていた。父がわずか8年の在位で1520年に没すると、首都イスタンブールへ戻って即位した。それ以前の代替わりでは熾烈な後継者争いがあり、敗れた王子やその子がほとんど全員処刑されたが、このときは争いがなく、他に男児の記録もないことから、唯一の後継者候補だった可能性が示唆される。即位の年にシリア知事が反乱を起こし、翌1521年にはサファヴィー朝に通じた部族の反乱も起きたが、いずれも同年のうちに鎮圧して足元を固めた。
1521年から外征に乗り出し、ハンガリー王国からベオグラードを奪い、1522年のロドス包囲戦で聖ヨハネ騎士団からロドス島を奪った。どちらも曽祖父メフメト2世が果たせなかった地であり、皇帝への評価は著しく高まった。ロドス島の征服後には、寵臣で義弟のイブラヒム・パシャを大宰相に抜擢している。1526年のモハーチの戦いではハンガリー王ラヨシュ2世を討ち取り、ハプスブルク家のオーストリア大公国と国境を接するに至った。ハンガリー王位を継ごうとしたフェルディナントと対立すると、1529年に第一次ウィーン包囲を敢行し、攻略には失敗したものの、西欧の人々に強い衝撃を与えた。1533年には和睦が成立し、ハンガリーに対するオスマン帝国の優位が確認された。
その後は東方のサファヴィー朝へ向かい、1534年にバグダードを占領し、1535年にはタブリーズに達した。1548年と1553年からの遠征ではサファヴィー朝の抵抗で成果を上げられず、1555年のアマスィヤの講和で国境を定め、イラクの領有が確定した。海では、1533年に帰順したバルバロス・ハイレッディンを海軍提督とし、1538年のプレヴェザの海戦でスペイン・ヴェネツィア・教皇の連合艦隊を破って地中海の制海権を握った。1536年にはイブラヒム・パシャが処刑されたが、その理由は伝聞にすぎず真相は不明である。
晩年は家庭的に暗かった。後宮の女奴隷ヒュッレムを寵愛して1534年に奴隷の身分から解放して迎え入れたが、その後は後継者をめぐる争いが激しくなった。1543年に次男メフメトが病死し、1553年には長男ムスタファを謀反の罪で処刑し、1558年にヒュッレムを失い、1561年には反乱を起こした皇子バヤズィトを処刑している。1566年、神聖ローマ皇帝マクシミリアン2世がハンガリーを攻撃すると、老いたスレイマンはあえて出陣し、行軍中は馬車に乗り換え、スィゲトヴァールの包囲戦の最中に陣没した。享年は72歳とされる。死は伏せられ、指揮を執った大宰相ソコルルの手で城は陥落した。遺骸はスレイマニエ・モスクの墓地に葬られ、後を継いだのは唯一生き残った皇子セリム2世であった。
同じ年に亡くなった人物
- Giacomo Gastaldi (1566年)
- ギヨーム・ロンドレ (1566年没)
- ジュリア・ゴンザーガ (1566年)
- アフメド・カラヒサーリー (1566年没)
- ランベール・ロンバール (1566年没)
同じ地域に関係する人物
- ラヨシュ2世 (ハンガリー王) (1526年没)
- ニコラ・シュビッチ・ズリンスキ (1566年没)