HISTORICAL PERSON · 1990年没

ルイ・アルチュセール

フランスの哲学者。『マルクスのために』『資本論を読む』で認識論的切断を唱え、イデオロギー論も提示した。高等師範学校でフーコーやデリダらを育てた。

生涯
1990年没
死亡地
フランス共和国(イヴリーヌ県 / La Verriere)
出生地
アルジェリア(ビル・ムラッド・ライ)
出典
世界地図
フランス共和国(イヴリーヌ県)

伝記

ルイ・ピエール・アルチュセールは、1918年10月16日、フランス領アルジェリアのビルマンドレで生まれた哲学者である。アルジェリアに移住したアルザス出身の、カトリックを信仰する家の出身で、父は銀行員だった。父の仕事の都合で、アルジェからマルセイユ、さらにリヨンへと移り、パルク高校で学んだ。受験準備学級では、ジャン・ラクロワやジャン・ギトンから哲学を、ジョゼフ・ウルスから歴史を学んだ。高校在学中の1937年に、キリスト教学生青年会に入った。高校生のころは、王党派のカトリックの影響を受けていたが、戦後になるとそうした政治的な傾向は鳴りをひそめた。1939年に高等師範学校に合格したが、学期が始まる前に第二次世界大戦が始まり、軍隊に動員された。所属していた砲兵部隊は間もなくヴァンヌで降伏し、戦争の残りの期間を、捕虜収容所で過ごした。この間、手帳に自伝的な文章を書き連ね、草稿は死後に公刊された。

1945年5月、終戦により解放され、モロッコのカサブランカで家族に再会した。1946年1月に、対独レジスタンスの闘士だったエレーヌ・リトマンと出会い、10月に高等師範学校に復学した。復学後は、ガストン・バシュラールの指導のもとでヘーゲルを研究し、このバシュラールのもとでの研究が、のちの「認識論的切断」を生み出した。捕虜生活と、エレーヌとの出会いを経て、労働司祭のモンチュクラールに代表される、カトリック左派的な立場に近づき、最終的にはマルクス主義に転じた。1948年8月にアグレガシオンに2位で合格し、同年9月に高等師範学校の復習教師として採用され、11月にフランス共産党に入党した。その後もカトリックへの関心は続いた。

高等師範学校の教員として、ミシェル・フーコー、ジャック・デリダ、バリバール、ランシエール、アラン・バディウ、ミシェル・セールら、20世紀中葉以降に活躍する多くの哲学者を育てた。1959年に『モンテスキュー 政治と歴史』を出し、1964年にはジャック・ラカンを高等師範学校に招いた。1965年に『マルクスのために』と『資本論を読む』を出した。フランス共産党を内部から批判しようとする試みで、マルクス研究に科学認識論的な視点を導入した。1962年にマルクスの初期作品「経済学哲学草稿」がフランス語で出版され、人間的な理想主義者としてのマルクス像が広まった。これに対してアルチュセールは、構造主義から手がかりを得て、ヒューマニズム的な解釈を「非科学的」として退けた。『ドイツ・イデオロギー』を境目に、マルクス独自の思想が展開されると考えた。また、論文「イデオロギーと国家のイデオロギー諸装置」で、呼びかけによる主体形成の理論を提案した。

1968年5月に五月革命が起きると、「バリケードの夜」のあとで入院した。1973年には、睡眠療法のため何度か医療機関に滞在した。1975年に、アミアン大学に業績にもとづく博士号を申請し、口頭試問では満場一致で授与に該当するとされたが、国の委員会の審査で落とされた。1976年にエレーヌと正式に結婚した。1980年11月、エレーヌを絞殺した。精神鑑定の後、心神喪失で免訴となり、1984年に再度の鑑定ののち、行政拘束を解かれた。のちに自伝『未来は長く続く』を書いて、自分のしたことを説明しようとした。1990年10月22日、ラ・ヴェリエール病院で、心不全により死去した。

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