伝記
アイリーン・ダンは、本名をアイリーン・マリー・ダンといい、1898年12月20日にケンタッキー州ルイビルで生まれた、アメリカ合衆国の女優である。父ジョゼフ・ジョンは、アイルランド系の蒸気船の技師で、アメリカ政府の検査官も務めた。母アデレードは、ドイツ系のコンサート・ピアニストで音楽教師であった。アイリーンは二番目の子で、二番目の娘であり、年上の姉は生後まもなく亡くなり、下に弟のチャールズがいた。父の仕事のため、一家はケンタッキーとセントルイスを行き来した。14歳のとき、父が腎臓の感染症で亡くなった。父が亡くなる前の晩に言った、幸福は偶然ではなく、人生の大きな蓄えから賢く選んだときに得る賞だ、という言葉を、彼女は覚えていて、その言葉どおりに生きようとした。
父の死後、一家は母の故郷のインディアナ州マディソンに移った。母は幼いころからピアノを教えたが、レッスンのために近所の子供たちと遊べないこともあった。学校の劇に出たのをきっかけに演劇に興味を持ち、声楽も習って、教会や高校の劇で歌い、1916年に卒業した。音楽教師を目指して、インディアナポリス音楽院で学び、1918年に修了した。その後、シカゴ音楽大学のオーディションを受けて奨学金を得た。ソプラノのオペラ歌手を目指して、1920年にニューヨークに移ったが、経験の不足と声が細いことから、メトロポリタン歌劇場のオーディションに2度落ちた。そこで声楽に加えてダンスのレッスンも受け、ミュージカルの舞台に備えた。1921年には、人気の舞台の主役として、主要都市を巡業した。ブロードウェイのデビューは、その翌年のクリスマスの日で、のちに自分の歩み出しを「たいした騒ぎではなかった」と振り返っている。このころ、名字に「e」を付け加えた。
1929年に、巡業劇団の『ショウ・ボート』のヒロインを演じることになった。巡業の演出家フローレンツ・ジーグフェルドとの偶然の出会いによるものだった。その成功で認められてRKOと契約し、1930年に『女護ヶ島上陸』で映画デビューした。歌唱力を生かしたミュージカルから、スクリューボール・コメディ、シリアスなドラマまで、幅の広い演技を見せた。1931年の『シマロン』以降、『花嫁凱旋』『新婚道中記』『邂逅』『ママの想い出』と、アカデミー主演女優賞に5度ノミネートされたが、受賞はならなかった。受賞に至らなかった最も優れた女優の一人とされる。1936年には、ミュージカルの『ショウボート』にも主演し、1946年の『アンナとシャム王』にも出た。品のある態度から「ハリウッドのファースト・レディ」と呼ばれたが、アイルランド系の田舎娘の生まれを誇りにしていた。
1952年に映画界から引退し、その後はテレビやラジオで活躍した。引退後は慈善活動に力を注ぎ、アイゼンハワー大統領により国連のアメリカ代表の一人に選ばれて、1957年の国連総会で世界平和を訴え、難民救済の計画にも光を当てた。ノートルダム大学のレターレ・メダルを受け、教皇庁から聖墳墓騎士団の勲位も授かった。1985年には、芸術への貢献でケネディ・センター名誉賞を受けた。1990年9月4日、ロサンゼルスの自宅で死去した。
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