伝記
ロバート・ノートン・ノイスは、1927年12月12日に生まれ、1990年6月3日に没したアメリカの技術者であり、実業家である。フェアチャイルドセミコンダクター(1957年創業)とインテル(1968年)の共同創業者の一人で、「シリコンバレーの主」とあだ名された。ジャック・キルビーと並んで集積回路を発明したことでも知られる。その事業の成功は、スティーブ・ジョブズなど、その後の世代の起業家にとって、師であり目標だった。
アイオワ州バーリントンに、会衆派教会の牧師だった父ラルフ・ブリュースターと、同じく牧師の娘だった母ハリエット・メイ・ノートンの、4人の息子の3番目として生まれた。母は意志が強く聡明な女性と評された。5歳のころから何においても負けず嫌いだった。12歳のときには、兄弟と一緒に、子供が乗れる大きさの飛行機を作り、グリネル大学の馬小屋の屋根から飛んで遊んだ。
アイオワ州グリネルで育ち、高校時代に数学と理科に才能を見せ、在学中にグリネル大学の新入生向けの物理学コースを受講した。1945年に高校を卒業してグリネル大学に入学し、グラント・ゲイル教授の物理学講座で、物理学に魅了された。ゲイルは、ベル研究所から初期のトランジスタを2個入手して学生に見せ、ノイスはそれに目を奪われた。一方で、手に負えないいたずら好きの面もあり、仲間と酒を飲み、宴会のために豚を盗んだことで停学となり、1948年には大学だけでなく町から追放された。この間は、ニューヨークの生命保険会社で事務員として働き、のちにグリネルに戻って、1949年に物理学と数学の学士号を得て卒業した。教官のゲイルが、マサチューセッツ工科大学の物理学の博士課程への進学を勧めたため、これに従い、1953年に博士号を取得した。ノイスは頭の回転が速く、そこでの友人は彼を「素早いロバート」と呼んだ。
1953年にフィラデルフィアの会社の研究開発部門に技術者として就職し、その後、ウィリアム・ショックレーにスカウトされて、1956年にマウンテンビューのショックレー半導体研究所に移った。しかし、まもなくショックレーと意見が合わなくなり、1957年にゴードン・ムーアら若手の研究者を伴ってフェアチャイルドセミコンダクターを設立した。社名は出資企業に由来し、親会社の社長だったシャーマン・フェアチャイルドは、ノイスの熱を帯びたプレゼンテーションが出資の決め手だったと述べている。フェアチャイルドでは、半導体集積回路の研究開発と普及につとめた。1959年7月には集積回路に関する特許を出願し、キルビーとともに、集積回路の発明者とされている。のちに、親会社との意見衝突や経営悪化により、1968年に再びムーアとともに会社を離れ、アンドルー・グローヴと共にインテルを設立した。インテルでは従業員を家族のように遇し、階層化されていないゆったりした職場環境を好んだ。この経営スタイルは、その後のシリコンバレーの各企業にも受け継がれている。インテルでは、テッド・ホフらのマイクロプロセッサの発明を監督した。
1953年にエリザベス・ボトムリーと結婚して4人の子をもうけ、1974年に離婚してアン・バウワースと再婚した。ヘミングウェイを愛読し、飛行機操縦やハンググライダー、スキューバダイビングを趣味とした。1987年にアメリカ国家技術賞を受け、1990年6月3日、テキサス州オースティンの病院で、心不全のため亡くなった。そのころは、半導体製造技術の基礎研究を行う非営利組織セマテックを運営していた。
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