HISTORICAL PERSON · 1990年没

レ・ドゥク・ト

ベトナムの革命家・政治家。インドシナ共産党に入党して2度投獄され、第一次インドシナ戦争中は南部中央局の副書記を務めた。

生涯
1990年没
死亡地
ベトナム社会主義共和国(ハノイ)
出生地
ベトナム社会主義共和国(ハナム省)
出典
世界地図
ベトナム社会主義共和国(ハノイ)

伝記

レ・ドゥク・トは、1911年10月14日、フランス統治時代のベトナム北部のナムディン省に生まれた革命家、政治家である。出生時の名はファン・ディン・カイという。十代のころからベトナムのナショナリズムの活動に加わり、青春の多くをフランスの植民地の監獄で過ごした。この経験が彼を鍛えたという。きびしい性格から、「ハンマー」とあだ名された。1929年にインドシナ共産党の前身の組織に入党し、1930年のインドシナ共産党の創設に加わった。フランス領インドシナの当局に、1930年から1936年までと、1939年から1944年までの2回、投獄された。南シナ海のコンソン島の監獄では、最も過酷とされた「虎の檻」と呼ばれる独房に入れられ、飢えと暑さ、屈辱に苦しんだ。ほかのベトナム人の共産主義者の囚人たちと、文学や科学、外国語を学び、モリエールの劇を演じたという。

釈放後は北部で活動し、1945年にインドシナ共産党中央委員に選ばれた。ベトミンを率いて、ジュネーヴ協定が結ばれた1954年まで、フランスと戦った。第一次インドシナ戦争中は、レ・ズアンのもとで南部中央局の副書記を務めた。1954年に北部に戻り、1955年8月にベトナム労働党政治局員に選ばれて、土地改革の後始末と、党の整風運動の責任者となった。1956年末には、党の人事を扱う中央組織委員会の委員長に就任した。人事権を掌握し、イデオロギー部門に睨みをきかせたレ・ドゥク・トの存在は、レ・ズアンの第一書記への道を開いたとも言われる。1960年の第3回党大会で政治局員に再選され、党内序列は第7位に昇った。1968年に再び南部に派遣され、南部中央局の副書記となった。

直後から、パリでの和平会談に取り組んだ。1968年6月にパリへ到着し、事実上の主導権を握り、9月8日には、アメリカ代表団長のハリマンと初めて会談した。途中でモスクワに寄り、コスイギン首相と会って、北爆の停止が和平交渉の突破口になるだろうというジョンソン大統領宛ての書簡を託した。公式の交渉団の団長はスアン・トゥイであったが、1970年2月以降、アメリカの国家安全保障問題担当大統領補佐官のヘンリー・キッシンジャーと秘密会談を重ね、これが1973年1月27日のパリ協定の停戦につながった。キッシンジャーは、のちに「私は彼との会談を喜ばしく振り返ることはないが、彼は実質と規律を備え、代表する立場を献身的に守った人物だった」と述べている。会談は、1970年2月21日の夜に、パリの質素な家で始まり、3年にわたる意志のぶつかり合いとなった。

1973年に、キッシンジャーとともに、パリ協定の交渉での尽力を理由に、ノーベル平和賞に選ばれた。しかし、「ベトナムにはまだ平和が訪れていない」と述べ、受賞を辞退した。ノーベル平和賞を辞退した唯一の人物で、ノーベル賞全体では、ジャン=ポール・サルトルに次ぐ2番目の辞退者である。アジア人として初めての受賞者でもあった。1973年6月13日には、アメリカと北ベトナムが、協定の全面的な実現に向けて相互に支援する共同声明に署名した。1986年の第6回党大会で引退し、党中央委員会顧問に就任して、死去まで務めた。1990年10月13日に亡くなった。

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