HISTORICAL PERSON · 253年没

費禕

諸葛亮に信頼された蜀漢の政治家・武将。魏延と楊儀の仲裁に努め、蔣琬の後を継いで大将軍・録尚書事となり、興勢の役で総指揮を執って魏軍を破った。北伐に消極的で、宴席で魏の降将に刺され死去した。

生涯
253年没
死亡地
中華人民共和国(四川省 / 剣閣県)
出生地
中華人民共和国(羅山県)
出典
世界地図
中華人民共和国(四川省)

伝記

費禕は、中国の後漢末期から三国時代の蜀漢にかけての政治家・武将である。字は文偉、江夏郡鄳県の人で、当時の蜀の人々から諸葛亮・蔣琬・董允とともに「四英」「四相」と称された。父母を早くに亡くし、一族で一世代上の費伯仁に身を寄せた。費伯仁の縁者が益州牧劉璋の母であった縁で、費伯仁が混乱の時代に比較的安定していた益州へ呼ばれると、費禕も義父の計らいで益州へ遊学した。

建安19年(214年)に劉備が益州を支配すると、そのまま益州に留まって家臣となり、董允・許叔龍とともに盛名を謳われた。こんな逸話がある。許靖の子の葬儀に董允とともに出ようとしたとき、董允の父董和が屋根のない小さな車を用意した。董允が乗るのをためらう様子を見せたのに対し、費禕は喜んで乗り込んだ。葬儀の場には諸葛亮ら要人が飾り立てた車で来ており、董允は恥じ入る色を見せたが、費禕は落ち着いていた。董和はこれを御者から聞き、息子に「そなたと文偉をずっと比べていたが、答えが出た」と語ったという。

劉備の嫡子劉禅が皇太子になると、董允とともに太子舎人、ついで太子庶子となり、劉禅の即位後は黄門侍郎に任命された。南方の平定から戻った諸葛亮を出迎えたとき、諸葛亮は同輩の中から費禕だけを同じ車に乗せ、周囲は驚いて彼への見方を改めたとされる。諸葛亮の命で呉へ使者に赴くと、孫権の傍らにいた諸葛恪や羊衜から鋭い論争を挑まれたが、礼を乱さず理に従って答え、ついに屈しなかった。孫権は「君は間もなく必ず蜀の中心人物になる」と評した。帰国して侍中に昇進し、北伐では諸葛亮に請われて参軍となり、建興8年(230年)に中護軍、のち司馬となった。陣中では魏延と楊儀が常にいがみ合い、魏延が刃をちらつかせて脅し、楊儀が涙を流すこともあったが、費禕が二人の間に入って諭した。陳寿は、難しい性格の二人が使い物になったのは費禕の取り成しのおかげだと記している。

諸葛亮の死に際して、後継者には蔣琬が適任で、その後任には費禕がよいとされた。費禕は蔣琬と協力して蜀漢を支え、蔣琬に代わって尚書令となった。延熙6年(243年)、蔣琬の病が重くなると大将軍・録尚書事に昇り、延熙7年(244年)に魏が蜀へ侵攻した際には総指揮を執り、王平と協力して魏軍を破った(興勢の役)。出陣の直前、来敏が囲碁の勝負を申し出ると、費禕は落ち着いて打ち続けたため、来敏はその度胸に感嘆したという。蔣琬の没後、延熙11年(248年)から漢中に駐屯して軍事・国政の全てを担った。北伐には消極的で、大軍を動かすことを望む姜維に対し、「丞相でさえ魏を破れなかったのに、我らでは到底無理だ」と述べて多くの兵を与えず、内政の安定を第一とした。延熙15年(252年)には大将軍府の開府が許された。

延熙16年正月朔日(253年2月16日)、漢寿での宴席で強く酔ったところを、魏の降将郭循に刺され、数日後に死去し、敬侯と諡された。かつて張嶷は、帰順したばかりの者を信用し過ぎる費禕を、刺客に殺された岑彭や来歙の例を挙げて戒めていた。死後は陳祗が国政を、姜維が軍事を主導したが、費禕の後を継げる人物はおらず、黄皓の台頭と連年の北伐もあり、蜀漢は衰退していった。私生活の費禕は慎み深く質素で、家に蓄財をすることがなかった。尚書令の頃には、膨大な政務を過ちなくこなしながら宴席や博奕にも興じたが、後任の董允が真似ると仕事がたちまち滞ったという。墓所は広元市昭化区の昭化古城内に残る。

同じ年に亡くなった人物

同じ地域に関係する人物