HISTORICAL PERSON · 257年没

サトゥルニヌス

ガリアの使徒の一人で、トゥールーズの初代司教とされる聖人。デキウス帝の迫害後にガリアをキリスト教化するため派遣された。異教の司祭に捕らえられ、雄牛の足に縛られて町を引きずり回されて殉教したと伝わる。

生涯
257年没
死亡地
古代ローマ(オート=ガロンヌ県 / トロサ)
出生地
ギリシャ共和国(パトラ)
出典
世界地図
古代ローマ(オート=ガロンヌ県)

伝記

サトゥルニヌス(フランス語でサトゥルナン、サルナン)は、トゥールーズの初代司教とされる人物で、257年に殉教したと伝えられる。ガリアに遣わされた「ガリアの使徒」の1人に数えられ、祝日は11月29日である。

ガリアの使徒の話はこうである。デキウス帝の迫害によって、ガリアの小さなキリスト教共同体はほとんど解体されてしまっていた。そこで教皇ファビアヌス(在位236〜250年)の指示によるとみられるが、デキウスとグラトゥスが執政官を務めた250〜251年に、ローマから7人の司教がガリアへ派遣された。トゥールにはガティアヌス、アルルにはトロフィムス、ナルボンヌにはパウルス、トゥールーズにはサトゥルニヌス、パリにはディオニュシウス、クレルモンにはアウストルモニウス、リモージュにはマルティアリスが送られたという。散逸した『サトゥルニヌス殉教伝』は、トゥールのグレゴリウスが年代記の史料として用いた。この殉教伝は彼を1世紀の人とし、キリストの72人の弟子の1人で最後の晩餐にも居合わせたと述べ、アカイア王アイゲウスの子とする系譜まで与えている。ペトロから司教に叙階され、同伴者としてパプルスが付けられたとか、ホネストゥスも弟子であったとかいう伝説もある。

殉教の場面は次のように語られる。サトゥルニヌスは教会へ通うたびに、祭壇のあるカピトリウムの前を通らねばならなかった。異教の司祭たちは、神託が沈黙するのは彼がたびたび現れるせいだと考えていた。ある日、司祭たちは彼を捕らえ、偶像への供犠を断固として拒むのを見て、足を雄牛に縛りつけて町中を引きずり回す刑に処した。縄が切れるまで引きずられたという。雄牛が止まった場所は、のちにマタビオと呼ばれたとされ、マタビオは「殺す」と「牛」を合わせた名だという。その地はトール(雄牛)通りにあたる。2人のキリスト教徒の女性が遺体を集め、異教徒に汚されないよう深い穴に葬った。同じ最期は弟子のフェルミンにも帰せられ、その殉教地はパンプローナである。この話については、雄牛を屠る場面がミトラス教の中心的な儀礼であることとの関連や、深い穴が実はミトラス教の神殿だった可能性も指摘されている。

後継のトゥールーズ司教ヒラリウス(358〜360年)とエクスペリウス(没年は410年頃)は、キリスト教の儀式が禁じられなくなると、遺体が葬られた地下の墓室の上に簡素な木造の祈祷所を建て、より丁重に葬り直した。この場所には、のちに14世紀のゴシック様式の教会ノートルダム・デュ・トール(雄牛の聖母)が建つことになる。巡礼者が狭い墓所に押し寄せるようになると、司教シルウィウス(360〜400年)が、より大きな聖堂の建設を促した。後任のエクスペリウスが402年にそれを完成させ、遺体は新しい聖堂に移された。この聖堂は現在のロマネスク様式のサン・セルナン聖堂の地下祭室にあたり、南フランスのロマネスク様式を代表する建物の1つである。聖遺物は1284年まで、主祭壇の前の交差部に置かれていた。

このとき司教は、公式の殉教伝である古い『受難伝』を賛辞の形に書き改め、彩り豊かな細部を加えた。エーズ、オーシュ、パンプローナ、アミアンの教会の創設とサトゥルニヌスを結びつける敬虔な伝説も盛り込まれた。それでもこの文書は、ガリア教会の最古級の文書に数えられる。フランスにはサン・サチュルナンやサン・セルナンと呼ばれる地名が数多く、パンプローナのサン・セルニン区、カタルーニャやアストゥリアス、ポルトガル、ウェールズにも、その名にちなむ地名が見られる。

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