伝記
ラーザリ・モイセーエヴィチ・カガノーヴィチは、1893年11月22日にロシア帝国時代のウクライナ、キエフ県のカバヌィ村で、ユダヤ人の両親のもとに生まれたソビエト連邦の政治家で、官僚である。人生の大部分において頑強な無神論者であり、形ばかりの教育も受けず、独学で靴職人として働いた。1911年にボリシェヴィキに入党し、1915年末に逮捕されて、故郷に送還された。1917年3月から4月には革鞣工組合の組合長と、ソビエトの副議長を務め、5月にはサラトフにおけるボリシェヴィキの軍事組織の指導者となり、十月革命の時期には、ホメリの反乱の指導者の役割を果たした。1918年に赤軍宣伝部の政治委員となり、ニジニ・ノヴゴロド県やヴォロネジ県の指導者を務めた。1920年から1922年には、トルクメニスタンで、現地のイスラム教の反乱勢力に対するボリシェヴィキの闘争の指導者の一人であった。
1922年5月にスターリンが書記長になると、カガノーヴィチは直ちに側近とされ、書記局の組織部の長に転任した。この部署は、党機構のすべての役職に責任を負っており、スターリンの支持者を重要な地位に就ける手助けをした。高い仕事力と、スターリン個人への忠誠、そして自身の個人的な見解の欠如が認められた。1924年に中央委員会の委員となり、1925年から1928年にはウクライナ共産党の第一書記を務めた。クラークに対する経済的抑圧の徹底を唱え、ブハーリンの穏健な政策に頑強に反対した。ウクライナ化政策はロシア化へと変更され、多くの党官僚が「ウクライナ民族主義者」として粛清された。1928年にモスクワへ戻って党中央委員会書記となり、1930年に政治局員になった。モスクワ地区とモスクワ市の第一書記も務め、農業集団化や早急な工業化を含む、スターリンの経済政策の実行の多くを監督した。1930年代に、モスクワで初めての地下鉄の建設を組織して寄与し、この地下鉄には1955年まで彼の名が冠されていた。このとき、救世主ハリストス大聖堂を含めた歴史的建造物の多くの破壊も監督した。
スターリンの指示で、モロトフとともに、ウクライナで集団化政策を積極的に奨励し、これが数百万人の死者を出した1932年から33年のホロドモール(ウクライナ大飢饉)をもたらしたとされる。1935年から1937年まで運輸人民委員を務め、大粛清の前から、「破壊活動家」として何千人もの鉄道の管理者の逮捕を組織した。スターリンの命令を実行する冷酷さゆえに、「鉄のラーザリ」と渾名された。航空機産業の人民委員だった兄ミハイルは、1941年6月1日に自殺した。独ソ戦では、北カフカース及びザカフカース戦線の政治委員を務め、1943年に社会主義労働英雄の称号を授与された。1952年から1957年は閣僚会議第一副議長であった。しかし、スターリンが反ユダヤ的傾向を強めると、ユダヤ系であるカガノーヴィチも冷遇された。
1953年3月のスターリンの死後に影響力を失い、1957年には、モロトフやマレンコフらの「反党グループ」に従い、フルシチョフに対する党内クーデターに参加したが、失敗に終わった。幹部会と中央委員会を解任され、地方の小さなカリウム工場の工場長となった。1961年には党から完全に追放され、モスクワに住む年金受給者になった。1991年7月25日に97歳で死去し、ソビエト連邦の崩壊につながる事件の前に亡くなった。晩年のインタビューでは、ゴルバチョフの統治を「国家の破滅の直接原因」と評していた。
同じ年に亡くなった人物
- チャールズ・オズグッド (心理学者) (1991年没)
- エクトル・リアル (1991年没)
- モクタル・ダハリ (1991年没)
- トム・オブ・フィンランド (1991年没)
- リチャード・ソープ (1991年没)
同じ地域に関係する人物
- アナスタス・ミコヤン (1978年没)
- エフゲニー・スヴェトラーノフ (2002年没)
- ボリス・エリツィン (2007年没)
- ペトロ・シェレスト (1996年没)
- ユーリイ・トゥイニャーノフ (1943年没)