HISTORICAL PERSON · 1991年没

ラジーヴ・ガンディー

インドの第9代首相。祖父ネルー、母インディラに続く三代目で、母の死を受けて1984年に40歳で首相となり、1989年まで務めた。

生涯
1991年没
死亡地
インド(タミル・ナードゥ州 / スライペルンブドー)
出生地
インド(ムンバイ)
出典
世界地図
インド(タミル・ナードゥ州)

伝記

ラジーヴ・ラトナ・ガンディーは、1944年8月20日に、英領インドのボンベイ(現ムンバイ)で、反植民地運動の活動家フィローズとインディラ・ガンディーの長男として生まれた、インドの第9代首相である。母方の祖父は初代首相ジャワハルラール・ネルーで、母も首相を務め、「ネルー・ガンディー王朝」の三代目にあたる。マハトマ・ガンディーとは血縁がなかった。幼少期の多くを、祖父が首相の時代に過ごした。1951年に弟サンジャイとともにシヴ・ニケタン校に入学し、教師からは、内気で内向的だが、絵を描くことを大いに楽しんでいたといわれた。その後、ドゥーン・スクールに入り、1961年に卒業した。スイスの国際寄宿学校でも学んだ。

母とロンドンのインド高等弁務官事務所の科学担当官の手配で、ケンブリッジ大学トリニティ・カレッジに入学した。工学を学ぶよう勧められ、1962年の3月に受けた機械工学の入学資格試験には失敗し、6月の再受験で合格して、9月に入学を許可された。ケンブリッジでは大学のボートクラブに入ったが、学業に身が入らず、1965年に学位を得ないまま去った。1966年にロンドンのインペリアル・カレッジの機械工学の課程を始めたが、これも修了しなかった。同年インドに戻り、国営のインディアン航空のパイロットとなった。1968年に、学生時代に知り合ったイタリア人のソニア・マイノと結婚し、息子ラーフルと娘プリヤンカとともに、デリーで家庭生活を送った。母が首相で弟が国会議員であった1960年代と1970年代の多くのあいだ、政治には関心がなかった。

1980年に弟サンジャイが飛行機事故で亡くなると、母の要請でしぶしぶ政界入りを決意した。翌年、弟の選挙区アメーティーで当選し、下院議員になった。インド国民会議の書記長となり、1982年のアジア競技大会の運営でも大きな責任を担った。1984年10月31日の朝、母インディラ首相は、シク教徒の護衛2人に暗殺された。その日のうちに、ラジーヴは首相に任命され、40歳で最年少のインド首相となった。直後の数日、暴徒がシク教徒を襲い、デリーで虐殺が起きるなか、指導力が試された。同年12月の総選挙で、インド国民会議は、541議席のうち414議席という、過去最大の議席を獲得した。インド国民は、彼に、腐敗のない清潔な政治家、誠実に近代改革を行う若々しい政治家というイメージを持っていた。実際、政府の官僚的システムの解体や、電気通信、工業、教育の近代化、科学技術の発展に尽力した。

外交では、これまでのソビエト連邦寄りの姿勢から、アメリカ合衆国との関係改善へ転じ、インドの首相として34年ぶりに訪中して、鄧小平と会見した。紛争中のスリランカにインド平和維持軍を派遣したが、反政府組織のタミル・イーラム解放のトラとの間で紛糾し、軍を引き上げた。政治スキャンダルにより、かつての清潔なイメージを失い、1989年の選挙で敗北した。その後も1991年まで国民会議の首班であった。1991年5月21日、選挙運動中に、スリランカへの介入に対する報復として、トラによる自爆テロで暗殺された。母と同じ最期であることから、「ガンディー家の悲劇」と呼ばれた。同年、インド政府は彼に、民間人に贈られる最高の賞であるバーラト・ラトナ賞を追贈した。1998年、妻ソニアが国民会議の首班となり、2004年の選挙で党に勝利をもたらした。

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