伝記
ヴァシリ・グリゴーリエヴィチ・ザイツェフは、1915年3月23日、ウラル山脈の現在のチェリャビンスク州にあたる地域で、ロシア人の農民の家に生まれたソビエト連邦の狙撃兵である。姓は、ロシア語でウサギを意味する語に由来し、彼が指導した狙撃手たちは、「子ウサギ」とあだ名された。幼いころから狩猟に親しみ、最初は弓、のちに銃を使った。12歳のとき、祖父から最初の銃を贈られたという。鹿の狩猟によって射撃の技術を磨いた、狩猟の名手だった。マグニトゴルスクの建築専門学校を卒業し、1936年または1937年から海軍に入り、軍事経済学校を卒業した。第二次世界大戦の当初は、太平洋艦隊で、会計や財務を扱う仕事をしていた。
ドイツ軍がソ連に侵攻すると、多くの戦友と同じように、前線への配置換えを志願した。1942年9月、第284狙撃師団の第1047狙撃連隊に配属され、スターリングラードの攻防戦に参加した。1942年11月10日から12月17日までの間に、225人のドイツ軍の将兵を倒し、その中には11人の狙撃兵も含まれる。11月10日以前にも、特別仕様でない小銃で32人のドイツ兵を倒したという。化学工場の廃墟に設けた狙撃兵の訓練学校で、28人の兵士を狙撃手として育て、3000人以上のドイツ兵が戦死する結果になったといわれる。彼の評判は口づてに全ソビエト軍に広まり、不十分な装備で、疲れ切り、空腹に苦しむ前線の兵士たちは、勇気づけられた。新聞も彼の活躍を伝えた。戦果は257人とも242人ともいわれる。
この戦いでは、ドイツ軍が彼に対抗して、腕利きの狙撃手を送り込んだという話が知られる。ベルリンの狙撃兵学校の教官、エルヴィン・ケーニッヒ少佐(ハインツ・トールヴァルト大佐ともいわれる)で、ザイツェフを抹殺する命を受けていたという。ザイツェフは、数日間ケーニッヒを追い求め、観測手のニコライ・クリコフと政治将校ダニロフとともに、トタン板と瓦礫の下に隠れていた相手を発見した。クリコフがヘルメットを囮にして敵の発砲を誘い、位置を把握したザイツェフが彼を討ち取ったとされる。モスクワの戦争博物館には、ケーニッヒの狙撃銃から取り外されたとされるスコープが展示されている。ただし、この逸話には疑問が多く、ドイツ側の記録に該当者がなく、そもそもベルリンにドイツ軍の狙撃兵学校がなかったこと、ソ連側の戦時日誌にも記載がないことから、ソ連当局による創作という見方が一般的である。2001年のハリウッド映画『スターリングラード』は、この伝説をもとにしており、ジュード・ロウがザイツェフを演じた。
1943年1月、目を負傷したが、フィラトフ教授の治療で視力を回復し、前線に復帰して、大尉に昇進した。ドニエプル川近郊で終戦を迎えた。戦時中に狙撃手のための教範を2冊書いており、その狙撃の方法は、2人1組のペアを3組で、同じ地帯を受け持つ6人組だった。1943年2月22日にソ連邦英雄の称号を受け、1980年にヴォルゴグラードの名誉市民となった。戦後は、キエフの工場の管理職を歴任し、1991年12月15日に死去した。生前はヴォルゴグラードへの埋葬を望んでいたが、キエフに埋葬され、2006年1月31日に、ヴォルゴグラードのママエフ・クルガンに改葬された。
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