伝記
ウィリアム・アーサー・ルイスは、1915年1月23日に、当時イギリス領ウィンドワード諸島に属していた西インド諸島のカストリーズ、現在のセントルシアで生まれた開発経済学者である。5人兄弟の4番目で、父ジョージ・フェルディナンドと母アイダは、世紀の変わり目のころにアンティグアから移ってきた。7歳のとき父が亡くなり、母が5人の子を一人で育てた。優秀な生徒で、年齢より2学年先に進み、14歳で学校を終えると、政府の奨学金の試験を受けられる年齢になるまで、事務員として働いた。この間に、のちのトリニダード・トバゴの初代首相エリック・ウィリアムズと生涯の友情を結んだ。
当初はエンジニアを志したが、政府も白人の会社も黒人のエンジニアを雇わないと考えて断念し、経営学を学んで、故郷で働こうと考えた。18歳のとき、政府の奨学金を得て、ロンドン・スクール・オブ・エコノミクスに入学した。ジョン・ヒックス、アーノルド・プラント、ライオネル・ロビンズ、フリードリヒ・ハイエクらに学んだ。1937年に優等で卒業し、産業経済学の博士課程の奨学金を得て、プラントの指導を受けた。1938年に教える仕事を与えられ、同校で初の黒人の教員となった。戦時中は、英国政府の商務省と植民省で働き、1948年までロンドン・スクール・オブ・エコノミクスに在籍した。1947年にグラディス・ジェイコブズと結婚し、二人の娘をもうけた。
同じ年にマンチェスター大学の講師に選ばれ、イギリスで初の黒人の講師となり、翌1948年、33歳で経済学の教授になった。1957年まで同大学で教えた。この間に、途上国の資本と賃金のパターンについて、最も重要な着想を発展させた。旧植民地が独立し始めた時期でもあり、開発経済学への貢献で知られるようになった。ナイジェリア、ガーナ、トリニダード・トバゴ、ジャマイカ、バルバドスなど、アフリカとカリブの多くの政府の経済顧問を務めた。1957年にガーナが独立すると、初代の経済顧問となり、最初の五か年開発計画の作成を助けた。1958年か1959年にカリブ海地域に戻って、西インド諸島大学の学長となった。1963年にはナイトの爵位を授けられ、その年にプリンストン大学の公共・国際問題の教授に迎えられた。黒人としては初めて正教授となり、のちにジェームズ・マディソン講座の教授となった。1970年には、設立に力を尽くしたカリブ開発銀行の初代頭取に選ばれ、1973年までその職にあった。
最大の業績は、発展途上国が抱える問題を説明するために、二重経済モデルと取引条件モデルを構築したことである。1954年の論文「無制限の労働供給による経済発展」で、貧しい国の経済を、余剰労働力を抱える伝統的な農業部門と、近代的な資本主義の部門に分けて、余剰労働力が伝統部門から近代部門に移ることで工業の成長がもたらされることを示した。余剰労働力を用いたインフラ投資が鍵を握るとして、政府による積極的な政策の必要性を説いた。初期の産業組織論の研究からは、オーバーヘッド・コストの概念が生まれた。1979年に、セオドア・シュルツとともに、発展途上国の問題に特に配慮した経済発展の先駆的研究により、ノーベル経済学賞を受賞した。平和賞以外のノーベル賞を受けた初の黒人である。1983年にアメリカ経済学会の会長となり、同じ年にプリンストン大学を退職した。1991年6月15日、バルバドスのブリッジタウンで亡くなり、遺体は、彼の名を冠したセントルシアの大学の構内に埋葬された。
同じ年に亡くなった人物
- ヴィルヘルム・ケンプ (1991年没)
- ロビン・ヒル (生化学者) (1991年没)
- チャールズ・オズボーン (1991年没)
- 井上靖 (1991年没)
- アンリ・ルフェーヴル (1991年没)
同じ地域に関係する人物
- スティード・ボネット (1718年没)