伝記
ヤン・ヘンドリック・オールトは、1900年4月28日、オランダのフリースラント州の小さな町フラネケルで生まれた天文学者である。医師アブラハム・ヘルマヌス・オールトとルース・ハンナ・ファーバーの次男で、両親はともに牧師の家系の出身だった。父方の祖父は、自由な思想を持つプロテスタントの牧師で、聖書のオランダ語の新訳を手がけた3人の一人として知られる。叔父にも、母方の祖父にも牧師がいた。1903年に両親はライデン近郊のウフストヘーストに移り、父は、神経を病む人のための療養所の医務部長となった。一家は療養所の長の家に住み、子供たちが育つには小さな森のある、すばらしい環境だったという。弟のジョンは、のちにワーヘニンゲン大学の植物病理学の教授になり、妹が二人いた。兄は学生のころ糖尿病で亡くなった。
ウフストヘーストで小学校に通い、ライデンの中学校を経て、1917年に物理学を学ぶためフローニンゲン大学に進んだ。高校のころから科学と天文学に興味を持ち、それはジュール・ヴェルヌを読んだことが刺激になったのではないかと、本人は推測している。純粋な科学に進むことで、人々から少し疎遠になるのではないかと心配したが、これを乗り越えた。フローニンゲンを選んだのは、有名な天文学者ヤコブス・カプタインが教えていたからで、物理学と天文学のどちらに専門を絞るか迷っていた。カプタインに学んだあと、天文学に決め、「教授の人柄が私を決めた。実に刺激的な教師で、とくに天文学の初歩の講義は魅力的だった」と回想している。三年次の初めから、カプタインのもとで研究を始め、物理学者フリッツ・ゼルニケからも大きな影響を受けた。1921年に最終試験を終えて、フローニンゲンの助手となり、1922年9月、イェール大学の大学院で学ぶためアメリカへ渡り、天頂儀による緯度変化の観測を担当した。1926年に、高速度星に関する論文で博士号を取得した。
帰国してライデン大学のエイナー・ヘルツシュプルングのもとで教え、1935年に同大学の天文学教授となった。1945年にライデン天文台の台長に就き、オランダ国立電波天文台長や国際天文学連合の会長も務めた。カプタインは恒星の固有運動に「流れ」があることを指摘しており、それを発展させたのがリンドブラッドの銀河系回転説である。オールトは、太陽周辺の恒星の固有運動を統計的に分析して、この説を実証し、銀河系の中心がいて座の方向にあることを示し、距離を約3万光年と修正した。1932年には、銀河面に垂直な恒星の運動から、必要な質量を計算し、「目に見えない物質がかなりの量あるに違いない」と書いた。翌年、ツヴィッキーがこれを「暗黒物質」と呼んだ。1951年にはライデン大学のチームを率いて、水素原子が放つ21センチの電波の観測に成功し、銀河系が渦巻銀河だと明らかにした。
1950年には、長周期彗星の起源について、太陽から1万から10万天文単位の彼方に、彗星の「巣」ともいえる球状の領域があるという仮説を提唱し、「オールトの雲」と名付けた。雲に存在する微惑星や氷、塵などが、近傍を通る星の重力の擾乱を受け、一部が太陽系の内側に向かって、長周期彗星として観測される、と説明した。オールトの雲そのものが直接観測されたことはないが、彗星の出現方向や軌道の特徴をよく説明するため、現在では広く受け入れられている。1942年にブルース・メダル、1946年に王立天文学会の金賞、1987年に京都賞を受賞し、1992年11月5日に92歳で亡くなった。
同じ年に亡くなった人物
- サミュエル・ハーマン・レシェフスキー (1992年没)
- ハインリッヒ・エーバーバッハ (1992年没)
- ジャン・アールツ (1992年没)
- フェザ・ギュルセイ (1992年没)
- ビル・ウィリアムズ (1992年没)
同じ地域に関係する人物
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- ヨゼフ・イスラエルス (1911年没)
- エフェルト・ファン・アールスト (1657年没)
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